「好きな人に、ほかの好きな人がいる分にはまだいいんですよ、一番悪いのは、誰にも興味がないのに自分にも興味がないこと」
徐に口にしてみた。目の前にいる教師は、対面で居残りの補習をしていた生徒がそんなことを言い出した、くらいの顔しかしない。ああ、その平然とした顔がとても憎らしい。
ただ、状況は事実そんなものだし、きり丸も自分がそんなことを唐突に言い出したことにまだ驚きを隠せていないのだ。
いまのところ、常に放校処分すれすれを通りながらも、ぎりぎり下の線に潜り込むきり丸が、どうしてそうやってぎりぎりのつなわたりを出来ているかと言えば、大半はこの教師たちのおかげだった。今日だって、放課後のバイトを出来ないことを嘆く気持ちはいつものように残っているが、それでもこうして時間を割いて担任が自分にものを教えてくれていることに感謝していないわけではない。むしろ。
「どうしてだ」
関係ない話をしているひまがあれば手を動かせと、彼が言わないだけ感謝するべきなのだろうと思う。そして、普段ならば怠慢をきつく責め立てるはずの彼が、こんなきり丸の無駄話に乗ってきてくれることに、ほんの僅かな期待を押し殺せないでいる。
「他を見てる人は、自分に振り向かせたら良いだけだけど、だれも見てない人は、こっちを見てくれるまでにまず興味を持って貰わなくちゃ」
言って笑う、指先はまあるい爪を整えて。
自分が見る彼の指は、尖った大人の大きなそれ。
幼い頃から抱き上げられてきたその手の大きさに、届く気が全くしない。
「お前もそんなこと言うようになったのか」
机を挟んで、向かい合って座っているから、膝ひとつ、爪ひとつ、動かせば彼に触れられる、そんな距離。もうずっと、幼い頃から自分の面倒を見てくれていた人の、そのもどかしい距離。
ねえ、先生。
あなたは、いま好きな人がいますか。
「なんで、急にそんなことを?」
ただの教師が、ただの生徒にこんなことを言われて、こんな風に返すのは狡いような気がした。だって、こっちはもう、彼が一歩踏み出せばすぐに落ちる縁に立っているのに。
補習は殆ど終わっていた。あと、きり丸が数行の文章を書き終わったなら、ふたりきりの時間は終わってしまう。ずっと知っていたはずの教室がふたりだけ、ぐっと強い角度で差し込む夕日に照らされた見慣れた教師の顔が、知らない色を映してくれるのを待っている。
「きっと、絶望的な恋なんです」
「お前がそんなこと?」
「ええ」
教師は、必ずしも笑い飛ばさなかった。
ただ、意図の読めない声で、ふうん、と呟いた。その唇の動きの生んだ小さなゆるみが、自分のここ数年の人生の殆どを占めてきた男の、知っているそれではないということだけで、きり丸は夢心地だった。
ああ、そうして、もっとおれを落として。
勝手に落ちて、二度と救ってくれないだろう、その手を愛させて。
「じゃあ、私もきっと絶望的な恋をしているんだなぁ」
彼が天井を仰ぐ。
その喉仏を赤い夕日が照らす。
「どういう、絶望ですか」
きり丸は禅問答のようなものは嫌いではなかった。時間に追われて勤労するのを愛する反面で、時間の無駄とすら受け止めることの出来る、即座に答えを作ることの出来ない問いかけ、答え、それは自分の内面を映し出す。
天井を仰いでいた土井の目が降りてくる。まっすぐとらえられたそれにふいに息を止めそうになった。ねえ、そんな顔をするなんて聞いていない。
「このままいけば、お前の人生の殆どを私の手元に縫い止められそうな錯覚をする、そんな絶望的な恋だよ」
もっと望んで。
何か渇望していたように、まあるく削ってあった爪を彼の指先に沿わせると、握り返される指がとても強かった。ひとたび武器を握れば簡単に人を殺せる手、きり丸の将来を、彼しかいないという絶望とやらで塗りつぶしてくれる手。
「お前は、どうなんだ?」
「先生の過去を知らないことを、絶望的に恨めしく思います」
「そんなの、いまに勝るものか」
数行を残した半紙が、無残にも畳の上に落ちた。墨は乾いていたが、先に腕を伸ばしてきり丸を引き寄せたのは土井なのに、同じ書き物をするように指示をするのも土井だったらそのとききり丸は怒って良いのだろうか。
胸元からは、幼い日に覚えた彼の匂い。
あれから幾年、簡単に抱き寄せることも出来ないような時間が続いて、どれだけふたりは双方のことを欲していたのだろう。
馬鹿みたいに。
「視界の狭さは、絶望につながるんだぞ、きり丸」
「それならばそれで、受けて立ちましょう」
土井はどうしていつもそうやってきり丸に余裕を見せるのだろうと思った。削りそろえた爪の下、きり丸の手のひらはとても熱く汗ばんでいて、ときどき繰り返すこういう愛の再確認のたびに、彼に恋をし直しているなんて、まるで持病のようだときり丸は思った。
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2011/02/05
初出はピクシブ。きり丸五年生くらい。はつがき