「遅くなったか」
「ううん」
この世で一番好きな人に、迎えに来られて気が咎めるはずがなかった。きり丸はそう思いながら、シートベルトを締めた。滑り込んだ助手席、よく消毒された匂いがした。レンタカーである。
大学まで行く気なんてちゃんちゃらなくて、高校を出たらそれなりにそれなりの仕事をするつもりだった。それを止めたのが運転席で自分がシートベルトを締めるのを待つ土井だった。中学の時の、担任だった。
高校までは遠縁の親戚の援助でどうにかなっていたものを、大学には行くだけの資金なんてない。そう言えば、奨学金でも借りればいい、成績が優良ならば貰える奨学金だってこの世にはたくさんある。彼が自分にそう言い含めたのが高三の春だった。
それからすったもんだあったけれども、一年とすこしが過ぎて、結局自分はこうして彼の家から大学に通っているのだから、あのとき相談しにいって良かったというものだろう。
「ね、何処行くの」
「たまにはどっか行くのもアリだろ」
土井は中学教諭というその職種のせいか、無計画なことは基本的にしない、大人だった。だから、中学の時から、ひとり暮らしを始めていたきり丸の部屋に上がり込んで世話をしてくれたことも何度もあったし、高校に入ってからも何度もきり丸の相手をしてくれたけれども、正式におつきあいをするようになったのは高校の卒業式の日からだった。
その日のうちになし崩しにキスまでいって、中学と高校の日々を過ごした部屋を引き払って土井の部屋に転がり込んだ日にはセックスまでいった。どちらにしてもとても切羽詰まった彼を見て、馬鹿な先生だなぁ、ときり丸は密かに思ったものだった。
もっとはやく、捕まえに来てくれて良かったのに。
今日のバイトが上がったらどこかに行こう。
そう約束できたことを考えれば、ハッピーマンデーというのも悪いものではなかった。きり丸はもとより土日はシフトを明けるようにしていたし、つきあい始めてからは大学の入学からの様々な物事のラッシュでどこかに出かけたこともなかったので。
車借りる、と言ったのはすこし意外で、都心、とまではいかないけれどそれなりに地代の高いあたりに住んでいる土井はもちろんマイカーなど持っているはずもなく、だから運転なんてしなさそうに見えた。素直にそう言うと、彼は苦笑して、ひとりで考え事をしたいときになんか、たまに乗ってたんだ、と言った。
「どんな考え事だったの」
「いつのだ」
シートベルトを締めたきり丸を確認すると、土井は車を出した。待ち合わせはきり丸のバイト先の最寄り駅のロータリー。大通りに乗って、車は快調とは言わないが、止まることもなく走り続ける。
「前、車乗るときは」
「ああ、それか」
まだ都会だった。
親切なカーナビが、行き先を入力して下さい、なんて言うので、きり丸はその音声を切った。土井も何も言わなかったので、まだ行き先なんて決まってなかったのだろう。
のろのろと車の列が動くので、前面から視線を逸らすことの出来ない土井の横顔を、ぼんやりときり丸は見た。視界に集中している彼は、街灯に照らされて、いつもよりも顔立ちの影がくっきりして、きり丸はぎゅうと胸が締め付けられた。
「まだお前が中学とか高校の頃、お前に惚れるのは正しいことなのかどうか考えに、よく海まで行ったんだ」
「海に行って何するの」
「なにもしない。車止めて海の音を聞いて、もうしばらくお前への気持ちを隠せる、って思ったらそこらへんでうどんか何かを食べて帰ってくるんだ」
「なにそれ」
幼い頃から身寄りを失っていて、どうにか身のひとつで生き残ってきたきり丸に、失うのが怖いものがあるとすればこの教師への思いだけだった。中学一年生で、あまりにかまい倒してくる彼に嫌気がさして、中学二年生で、それがすり替わって恋になるのを感じた。それからずっと、つかず離れず、好きだという意思表示も明確にはすることなく、きり丸は土井の近くにいた。
その間中、ずっと。
きり丸はひとつ深い溜息をついて、土井から視線を外した。相変わらず車列は絶えることを知らないが、もう少ししたら高速道路の入り口があるらしいという表示がふと目に入った。
「ねえ先生、俺も海が見たい」
「え」
「先生が考え事してた海」
「ああ、いいな」
ひどく不自然な、とふたりがずっと悩んでいた恋を漸く実らせたのだ。彼が見てきた景色を見られる限り見たいと思うのはしかたのないことだったと思った。
信号が赤くなって、のろのろと動く車列がのろのろと止まる。土井はカーナビの地図をちらりと見た。それから、そのまま視線を流してきり丸のことを見た。
きり丸はその視線に答えた。
運転席から僅かに腰を浮かせた彼が、かすめるようにキスをした。あ、と思ったときには既に彼の顔は離れていて、きり丸は、くそ、と思った。
こういうときに彼の唇を舐めるくらいの意地悪をしたいのに。
「連れて行ってもらうばっかりだね」
「なにが」
「先生がいなきゃ、俺、どこにも行けない」
笑ったのに、青信号に変わったせいで、土井の視線が離れたのが分かって少し寂しかった。すこしの沈黙の後、彼はぽつり、と言った。
「いつか追い越されるまで、せいぜい手、引っ張ってやる」
そんな日が来るとは、いまはまだぜんぜん思えないけれど。
そう言って自分を甘やかしてくれる彼がとても好きなので、もう一度きり丸は土井の横顔を見た。睫毛の落とす影が知らない男のそれのようで、同時に自分しか知らない彼のようで、ああ、惚れるってどうしようもないんだなぁ、とつくづく思った。
*
2011/02/11
初出はピクシブ。運転する土井先生とかイケメンで狡いとしか言いようが