「一番好きな人とは幸せになれないんだって」
爪をやすりながら、きり丸が土井に背中を向けたまま、不意に言った。長い髪はちょうど背中にかかるくらいだった。寝る前とあって白い寝間着を羽織り、髪は結っていなかった。しゃり、しゃり、と聞こえてくる音が耳に心地好い。
きり丸がもうすぐ六年生に上がる。
人はとっくに殺していた。
はじめは間違いだったか、いまは実習だったか、きり丸自身がどうでも良いのか、そういうことに対する気遣いはなくなっていたようだった。昔に感情をあらわにさせてきたのは、裏腹にこの年になって隠し事を上手くさせるためだったのかもしれないと、土井は思う。
痩せた体と艶めいた髪が背後から見せる彼の影が、ああきり丸もそういうことを言うようになったんだなぁという感慨を土井に持たせた。土井はもうきり丸を抱いていたが、それは本人の渇望によるものだった。
「ほう」
「だったらさ」
爪を丸く整えているきり丸は、なぜそうするのかを土井が一番知っている。どうしても一番の苦痛と、それが快楽にすり替わる瞬間に、土井の背中に爪を突き立てないようにするための、唯一の対策がこまめに爪を切るためだということ。
きれいな姿だな、と思う。髪がうっすらと蝋燭に照らされて、黒を背景にしながら赤に青に光って見える。いつか土井がきっと先に死ぬのだろうと思う。そのときにこの姿が美しければいいと思うし、どこか怪我をしてつぶれていてしまったとしても、これほど美しかった彼のことを土井だけが覚えていればそれでいいと思う。
「俺と先生は、幸せになれないのかな」
爪の先に溜まった粉を、ふ、と吹き飛ばしながら、彼は言った。土井の顔を見ないことからきっと本心から話していないということがわかったし、真に受けると傷つくのは自分のほうだとも知っている。
「お前は、不幸は、なんだと思う」
「先生と一緒にいられないこと」
ずいぶんぴしゃりと返答がきて、土井は彼が背を向けているのをいいことに目を見開いた。先生とはなれるのなんてやだ、小さく呟いたのがもし本音だったとしたら、それ以上土井には、もういま何も要らない。
最低だなぁと思う。
「じゃあ、いつかどうしようもない出来事が起こってお前と私が離れ離れになったならば、やはり私たちは一番好きな者同士なのだな」
敢えて揺さぶったのは彼がこちらに来てほしいから。
爪を削るのは土井のため、こんな話をするのも土井の気を引くため、彼のなかで自分がどれだけ高い地位を占めるかを知っている。一方で、そういうことを何食わぬ顔で言うくせに、自分のひざに素直に甘えにこないきり丸が、こちらに来てくれたらいいと思っているから。
彼は今度こそ振り向いた。爪と同じように、目も丸くした。目がばちりとあって、ああ、あの小指はまだ尖ったままだ、と土井は思考の隅で思った。思ったけれども、もしそれできり丸が土井に痕を残すと言うならば、まったくもってそれでもいい、本気でそう思っていた。
六年生に上がる。
人を殺した彼が、いつ死んでもおかしくない世界へ進む。
いつか、先に死ぬはずの自分を取り残して、きり丸がどこかにいってしまうというならば。そのときに何も手元に残すことが出来ないのはきっと土井のほうなのだろう。
「先生の馬鹿」
「うん」
「意地悪」
「うん」
「俺、どこにも行かないよ」
「それはどうかな」
「信じてよ」
縋るように胸元の着物を掴む手を撫でる。
この子を幸せにしたいと思う。
けれども、一番好きな人とは幸せになれないと言うのならば、きっと土井はきり丸を不幸にするのだろう。それも、彼を一番すいていた証拠になるというならば悪くない気もしてしまうから、年甲斐もない恋に自分でも身を震わせていることを、この子がまだ知らなければいいと思う。
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2011/03/24
初出はピクシブ。失うことを恐れないきり丸と失う未来しか考えられない土井先生という対比はとても好きです