誰がこれほど、この子に完璧な女装をたたき込んだのだろうと思う。その姿は不安定そのもので、もう少し幼ければ心おきなく甘やかすことができるし、もう少し大人になっていればそれに応じて距離をとることもできただろう。だが、きり丸はどちらに転ぶにしても不安定な揺らぎの年頃の、少女の姿になることについて、完璧と言ってもいいほどの腕をしていた。
実習担当の教師があれだったというのに、どうしてこの子がこれほど完璧な女装を心得ているのかと言えば、たぶん市井の女性を見慣れて、どう装うべきかを学んでいるからだろう。そういうところの観察眼については、ずいぶんと人よりも秀でてきた。
忍者は武士ではない。情報を引き出して、それを使いこなすのは、一つの技だった。大変わがままだとは思うけれども、土井としてはきり丸にはなるべく、そういった、直接には手を下さない、影に徹した忍務で生きていってほしいと思っている。もちろん優先されるべきはきり丸の希望だ。けれども、それは、ただの、土井の希望だった。一切合切が希望であり、その僅かに装った胸元に苦無を詰めているのはきり丸が忍者のたまごである以上仕方がないことだ。
今日はうまく忍務を成功させてきたらしい。近所の大地主の、囲っている女の数を聞き出すという仕事だ。下女として働かせてほしいんだけれど、どれくらい余裕がありますか、なんて聞いてきた、と本人が言っていたけれども、そんな手慣れたことを聞くことができるようになったのは、彼の勝手な応用力だ。
大した仕事ではなかったらしく、物売りの仕事などをした後の方がよほど、着物も髪も乱れていることが多かった。そういう設定だったからだろう、派手な着物ではなく、麻の小袖で出かけていったのだが、ほんのりと藍に染めたそれがかえって、不安定な印象を強めると言ったところだった。
その髪が特筆すべき美しさなのだ。
黒くつやつやと、そしてまっすぐに落ちる髪は、まとめるのには難しいと本人はごねる。けれども、今日のようにそれをすとんと流し、低い位置でひとつだけ結っていると、よく光を映して揺れる。
実に欲情させてくれる。
ほかの生徒はまだ、それぞれに課された実習から戻っていなかった。戻ったとしても、時刻は放課後であり、そこから教室に戻ってくる者は少ないだろう。
きり丸がどうして教室に戻ってきたのかは、土井がどうして教室から校門を見下ろしていたかという理由とあまり変わらないだろう。自分たちは馬鹿だなぁと思う。目があって、笑ったきり丸に見とれた自分も、肩をすくめてそれでも会いに来てくれるきり丸も。
まだ何も知らない子供だ。机を挟んで座った少女は、あどけなさを残して色気を探っているように思えた。普段のきり丸とあまり印象が変わらないのに、つくりがなまじ完璧なのが土井を動揺させているのだと思う。
そもそもきり丸だって土井にそんな目で見られているとは思ってもみないだろう。あれはまだ子供だ。とてもではないけれども、土井と駆け引きができるような大人ではない。それがあの不安定さにもにじみ出ているというものだろう。
女物の着物に合わせて、きり丸はきちんと正座していた。じっと見上げてこられると、どうしてもいけない気持ちになるのは仕方がないことだろう。
「で、何しにきたんだ」
「先生が見えたから、なんだかお話したくて」
「そうか」
模範解答だ。
普段の教科の試験でも、これくらいに完璧な答えをくれたならば、土井だってあっさり陥落するというのに、そのあたりをわかっていないところがまだまだ子供だな、と思った。もちろん現実逃避も兼ねている。
前髪はいつも通りすとんと正面に落とし、後ろ髪を肩にひっかけて前に持ってきている仕草は、幼い子供のそれではなかった。それなのに顔立ちはまだそれほど化粧を施していない事もあいまっていつもの彼のままで、ああもう、どちらかにしろ、と土井は思う。どちらでもないところが好きなのだ、というのはさておいて。
向かい合わせに座っていた髪があまりにも身近な存在にふさわしく思えなくて、土井は思わずそれに手を伸ばして、掬った。結い紐に見覚えがあるような気がして、首を捻ったが、きり丸が土井の動きに驚いたように肩を引いたので、自然な動きを装ってその髪から手を離した。
「伸びたな」
「そうかな」
さりげなく言えば、きり丸はおもしろいほど簡単に流されてくれた。こんなことでいいのかと不安になるくらいに、自然なやりとりがわからなくなって、土井は自然口数が少なくなって、彼のことを探りながらでないと口が利けなくなってくる。
手を伸ばせば、その先はたやすいような気がしている。彼の中の大きな部分を自分が占めているのは確実であり、それを恋だというのだとひとつ背中を押してやれば、彼は確実に自分に靡くような気がしている。
それは彼との関係に基づいた勘であり、もしもはずしたとしたら落ち込むしかないだろうとはわかっている。それでも、土井はいつしかこのたったひとりの子供を手にしなければならないと思い始めていたし、それがこんなふうに目の前に、ひどく魅力的な格好で現れてくれたならば、そんなふうな思いが加速することを止められないのは仕方がないことだと思う。
「似合ってるよ」
さりげなく言えば、きり丸は年相応に、うれしそうにはにかんだ。その表情が一番、土井を留まらせた。踏み込めばきっと、身を滅ぼすような一時の快感と、一生抱えて行かなくてはならない後悔を携える事になると分かっていたから。
なにもかもをなかったことにしなければならないとしたら、それはすこししんどいだろうな、とは思っている。いつかは手放すものだ。教え子で、誰一人として、土井のためにそばに寄り添うことを選んだものなどいない。きり丸だってきっとそうだろう。
ただ、これは土井のわがままだ。
「似合ってるだけじゃ駄目?」
「まだお前には分からんよ」
こんな風に、髪を掴んで、自分の手元に置いておきたいと思う衝動の名前なんて、できれば知らないままでいてくれたらいい。これを教えてしまえば、土井は自らきり丸の進路を狭めることになるだろう。
ただ、ふれた髪のひんやりとした艶、ほとんど化粧をしていない不安定な表情のつくりかた、肩の線、そういうものをたまらなく熱源だと感じる瞬間、そういうのが、いまさらひどく切なく胸に迫ってくると言うだけのことだ。土井は、それを、きり丸に話すことができるほど、わがままにはできていなかった。
*
2011/05/15
初出はピクシブ。「愛の名前」(110410発行の土井きり本)で書きたくて書けなかったシーンを後出し