揺らめく雨音

 この時期の雨降りはなかなか煩わしくて、春を予感させる暖かな雨降りかと思えば、冬の名残を感じる冷たい雨降りであることもある。今日、おつかいで揃って街に出ていたふたりが、ぐるっと街で用事を済ませてばったり関を出たところで出くわしたところに、ぱた、と降ってきた雨は、不幸にして後者だった。
 瞬く間に雨音はぱたぱたと、兵太夫と伝七のあいだにも周りにも降り注ぐ。文句を言うよりも早く、兵太夫が駆け出した。伝七だってこんなところで雨に降られるのはごめんだ。そして彼の背中に文句を言っても仕方ないこともよく分かっている。なにせ人為的なからくりには慣れている彼でも、気象までも左右できるわけではないことを、さすがに伝七も理解しているからだ。
 通り雨なのか、それとも本降りなのか、伝七には分からなかった。街と学園のあいだをまだ三つに割って一つにも満たないようなところで、兵太夫は足を止めた。伝七はその背中が止まったので、ついつられて立ち止まった。
 古い堂だ。
 何せうっかり兵太夫に出くわしたところに突然の雨だ。何も言わずに走り出したところを見れば、兵太夫だって雨よけになるものを持っているわけではないらしい。全く肝心なところで頼りにならない男だ、と思って、伝七は兵太夫の開いたあとの扉を黙ってくぐった。自分一人が先に入って、伝七が堂に入る前に扉を閉め切ってしまわなかった辺り、兵太夫にはどうやら伝七とともに雨宿りをするつもりがあるようだった。
 会話をする必要はなかった。そもそも口をきけば確実に彼のみが愉快な思いをして、自分は不愉快になるのが分かっている。兵太夫は黙って上着を脱いでいた。単衣から見える肩が、服の上から想像するよりも思いの外発達していることを伝七は知っていた。一年生の頃にはさほど変わらなかったはずの体格が、なぜたった二年で開ききったのかは知りたくもない。どうせは組が馬鹿なことに、実習に費やした分の実力がここにきて出ているだけのことだ。
 伝七は懐から火種を取り出した。作法委員会については、からくりの技術を引き継いで勝手に伸ばしているのが兵太夫であり、先代の委員長の火薬の腕を引き継いだのが伝七の方だ。かつてのあの美しい人のように、火に触れることすらも恐れないような大胆な使い手になるのには多分未だ時間がかかるのだろう。
 ただ、時折いまの作法委員長が、伝七の手つきを見てほんのりと、しかしうっとりとしたように眼を細めてくれるので、いまの伝七にはそれだけで充分幸せなのだ。
 幸いにして堂の中には薪がそっくりそのまま残されていた。外見がぼろぼろなので分からないが、もしかすると誰かがいまも普通に倉庫として使っているのかも知れない。それならば誰かの財に火を点けることになるのですこし気は咎めたが、冬の気配の残る雨に伝七は肩から冷えていた。早く上着を脱がなければ、湿った上着のせいでかえって余計に温度が奪われることは分かっていたのだ。だが、兵太夫を温めるのが先だ、と思ってしまう自分のお手軽さは、ほとほと嫌気が差した。
 薪をくべて火種を落とすと、ぽう、と小さな音を立てて火がゆらめきはじめた。兵太夫はその音に振り向いて、あら、と意外そうな声を出した。何が意外なのか、分かるような、知りたくないような。知らぬ存ぜぬを突き通して、伝七も漸く上着を脱いだ。湿ったそれが少しへばりついて不愉快だった。
「伝七にそんな備えがあるなんてね」
 そこらの出っ張りに上着を引っかけた兵太夫は、街の外れで出会ってからはじめて口らしい口を利いた。いきなり挑発的なことを言われても、もう即座に頭に血が上るほど自分は単純には出来ていなかった。
「役に立ったなら何よりだ」
「君が、僕を温めてくれようとするなんて」
「目の前で凍え死なれたら寝覚めが悪いだろう」
「うんそうだね、僕も伝七がこのお堂に入ってくれなければどうしようかと思った」
 そう言われてつい、ああ、もしかするとここにもからくりを仕掛けているのだろうかと背筋を震えが走ったが、まあ、こうやって同じ空間にいる以上、命を取ろうとするような規模のからくりがあるとは思えない。それに、雨に降られたとはいえ、同じ空間に自ら飛び込んだのは伝七だった。ここで彼に何かされるというのならば、まあ、悔いるべき立場ではないだろう。
「冷えた」
 兵太夫に倣い上着を干して、それから伝七は兵太夫の隣に座った。火を囲むように向かいに座っても良かったのだが、そうするのには少しばかり肩が冷たすぎたのだ。発達した肩は伝七のさほど大きくない頭を支えるのに丁度良いことを、伝七はなぜか勘のような、経験で知り尽くしていた。
「うん、僕も」
 隣に座った伝七が、それでも兵太夫に凭れるかどうしようか迷っているあいだに、兵太夫の方が伝七の腕を引いた。咄嗟に腕が伸びても嫌だと感じなくなったのは、双方の大いなる歩み寄りとそれでは済まされない踏み込みのせいだろう。
 兵太夫の肩だって、雨に濡れていたのだからけしてあたたかなわけではない。それでも、こうやって温度を分け合うことで、二人は暖を取ることが出来る。いつこんなことを知ったのかはもう覚えていない。振り向くことに意味なんて無いことを、関係なんて儚いものだと言うことを、先代も、いまも、作法委員長は下級生に言葉にせずに示していった。
 或いは、自分たちが馬鹿みたいに引き合うから?
 いまだって、この状態を誰かに見られるくらいならば伝七は舌をかみ切って死んでも良いと思う。学園に一歩踏み込んだが最後、兵太夫がいま触れたところから伝えてくれている熱なんてきっと嘘だったと思うくらいに、ふたりはいがみ合う。
 目の前で燃え上がってはほろほろと崩れていく炎を見た。
 燃え尽きるものは儚く、だからこそ美しいのだ。
 もののあわれを知らない自分でさえ、突きつけられる現実。
「君はほんとうに可愛いね」
 兵太夫はそう言いながら、伝七の顎を掴み引き上げて口を吸う。
 ほんとうに心からそう思うならば、愛の言葉の一つでも上手く囁いてみろ。
 伝七は思いながら、吸われた口が離れた隙に答える。
「これ以上冷え込むようなことを言わないでくれるか」



2011/04/12
初出はピクシブ。三年生。ここめんどくさそうでたまらないものを感じる