浦風が怪我をした。
あれだけハードなステージを毎日見せている以上、怪我はつきものの商売だ。客の前ではなく、バックヤードで練習しているときだったぶんだけは、まだしも良かった。とはいうものの、新曲の披露に合わせて、衣装もはじめて身につけて、ヒールも履いた初回の合わせのことだった。
笹山にしなだれかかって、床を蹴り上げて一回転。難しいリフトをする場面で、上手くかみ合わずにヒールが床の溝に引っかかったという。滑り落ちた浦風が一週間、サポートの笹山は一日の絶対安静を言い渡された。
新ナンバーなしでショーを進行することも考えられたが、このナンバーは三人構成だった。リフトの場面は後ろに下がりつつ、いざというときのサポート役を仰せつかっていたのだ。そう、もう一人だけ、このナンバーを練習していた黒門に、立花は言い放った。
「出来るな、伝七」
頷かざるを得ない圧力がある。この人に逆らうという選択肢はない。
倶楽部の主である立花は、元々、唐突に若いダンサーを前面に出して試すことがあった。先だっては摂津がそうだったし、今度はきっと黒門がそうなのだろう。それはたぶん立花の期待を受けて許されることであり、黒門は頷きながらも、自分の肩にのし掛かる重圧を感じては溜息を吐きそうになった。
黒門はもうずっと、自分のポジションに悩み続けている。
浦風はこの場所において極めて清純な空気を放っている。ただでさえ爛れた倶楽部街の中で、いまでも嫌み無く白を着こなすことが出来る。けれども、その肌や黒い髪にどうやって艶を刷くか知り尽くしているため、何も知らないというわけではない。そのギャップが、浦風の持ち味だった。
笹山は黒門と同じ歳だというのに、細く目を眇めて笑うとき、その向こうに隠された欲を隠すことをしない。むしろ、欲を知り始めた歳であることを明らかにして、見せつけて、若さと危うさを上手く渡っている。知りたがりな悪戯な目を見せられると、同性も異性も、ついことりと落ちてしまう。
黒門はその理由を知っている。
与えられた重圧にどう振る舞って良いか分からないまま、それでも稽古に励むしかない。夜が更けると帰宅するべき時間が訪れる。駐車場にはパトロンたちがお気に入りのダンサーを待っている。この倶楽部は立花の方針であまり特定のパトロンに深入りさせることはないけれども、それにしても、待っているものは、待っているものだ。
倶楽部はスポンサーがあって、それとダンサーがどんなふうにつながっていても、仕方のないことだ。そう、ダンサー同士が惹かれ合っても、そこには消費しかない。スポンサーを取り込めば、倶楽部に金が入る。たったそれだけ、きっとたったそれだけだと思いたい。
良く来る客に、運送屋の息子がいる。いつだって、駐車場で笹山が出てくるのを待っている、健気な男だ。誰にでもきつく当たる笹山だから、少々ぶっきらぼうな物言いをしていたって誰も驚かない。例えそれが金持ちの息子だからと言って、その男はけして笹山を叱ったりしない。
けして笹山に惹かれたりなんかしていない。黒門はそんな恋に意味がないことをよく知っている。だから怖くない。
ぺたんこのパンプスを履いた笹山の足首に包帯が巻かれているのを見た。ほんとうに明日黒門がセンターで一曲踊るのか、とぞっとした。それだけだ。たとえ加藤が笹山を迎えに来たからと言って、だからなんだというのだ。二人が何処へ行こうとも、知ったことではない。
意味がないのだ。
「伝七」
自分のバイクに向かいかけた黒門に、後ろから笹山が声を掛けてくる。
向かいに加藤が居るのに、放っておいてくれて良いのに。
黒門は振り向かず、ただ、呼び止められて立ち止まった。笹山は別に、振り向いてこっちを見ろなんて、面倒なことは言わない。どうせ相手にする気もないのだから、放っておいて欲しいと思う。
「精々がんばれよ」
ほら、憎らしい言葉。
「言われなくても」
返せるのはこんなかわいげのない言葉。
加藤が気遣わしげに何か言おうとしているのは分かったが、なにか話す方が辛いので、黒門はそれを無視してバイクに跨った。どうせ二人でこれから車でデートと洒落込むのだろうから、放っておいて欲しい。
ざ、とバイクに跨ると、後ろから笹山の声。
「あいかわらず、色気がないんだから」
返事はしなかった。
いつだって夜の街を走るのは気持ちが良い。
歯を食いしばっても泣いてなんかいない。
ダンスも、歌も、黒門は他の年上を差し置いて秀でている自信があった。それでも、黒門のステージは、足りない、足りないと言われ続けていた。いつも組んでいるのが浦風と笹山、裏腹の魅力をもつ二人だから、それだけで足りると思っていた。
欲しいものを手に入れたいと思ったときに、魅力は自然と出てくるものだ。かつて立花はそう言っていた。がむしゃらにレッスンに励み、バックダンサーとしてステージに上がるようになった頃、よく対で使われる笹山の目が、急に色に帯びたことに気付いた。
なるほど、こういうことかと、理屈は分かった。
そのころ笹山が絡むようになったのが加藤だ。
つまり、笹山は加藤が欲しいのだろう。この業界では男同士だとかその逆だとか言うことに深い意味は何もない。だからそんなこと自体はまったく軽蔑しなかった。黒門がぞっとしたのは、それを見て、ああ、なんて綺麗なんだろう、自分もこれに抱かれたい、そう思ってしまったことだった。
とはいえ、黒門は、欲しがることが苦手だった。
まして笹山は、黒門が欲しいと思った瞬間には別のものを欲しがっていたのだ。なんてナンセンスなのだろう。
欲しいと思う気持ちが足りないのか、はじめから諦めていることがいけないのか、黒門には分からなかった。
振りを確認して楽屋に入る。狭苦しい化粧前に詰め込まれたダンサー達が入れ替わり立ち替わり化粧直しに訪れる。初めてのセンターを張る若い黒門に、敢えて話しかけてくる者もいない。ここでは、誰もが忙しいのだ。
「伝七、ちょっとおいで」
呼びつけたのは立花だった。
最近は彼が直接ステージに上がることは減った。今日もそのつもりはないらしく、いつも通りメイクはしているものの、踊るための衣装は着ていない。この倶楽部の主はいつだって美しかった。黒門は彼にあこがれていたので間違いないと思う。
立花の部屋は、こういった倶楽部街の雑多なものにあふれかえった空間の仲で、極めてものが少ないシンプルな部屋だった。伝七は既に本来浦風が着るはずだった黒いスパンコールのドレスを着ていた。ドレスと言って腰から下はリボンが複数、まるで蛸足のようにぶら下がっているだけで、脚を隠すつもりなんてまったくない。網タイツの下にはいた赤い靴がまるで自分の髪色に似ているようで、それがすこしだけ励まされた。
「緊張しているか」
「はい」
いつものポニーテールと、いつものメイクでは足りないと感じていた。化けたかった。笹山がバックヤードにいるのは見かけたから、彼はきっと今日のステージを見て、黒門を笑うつもりで居る。それがどうしてもくやしかった。今日だけは彼を見返したい、そんな初めての思いで黒門はひどく胸がしめつけられていた。
「お前は、もう少しわがままを言いなさい」
そう言った立花は自分のデスクのペン立てから無造作にグロスをひきだして、黒門の唇に乗せてくれた。驚いている黒門の唇、いつもよりも、黒門のもとの唇の形よりもずっと大きくべったりと塗りつぶされていく湿気が、壁に掛かった鏡でてらてらと光っている。
「どんな風に見せたい?」
「……色気の、あるように」
自分のなかに響いてくる言葉なんて、所詮は気になる人に言われたそれでしかない。黒門は立花に一礼して、同じペン立てからコームを借りると、ポニーテールに逆毛を立てた。
立花はそれを見てにやりと笑うと、スプレーを後ろから振りかけてくれた。ラメの入ったそれはきらきらと黒門の髪にまとわりついて、落とすのが大変そうだなぁと思ったけれども、いまは必要なものだった。
「誰に響かせたいか、それを考えなさい」
「誰に」
「色気は、振りまくものじゃないし、私たちは誰にでも媚びるけれども、誰のものになるわけでもないんだよ」
好きになったものが負けだ。
分かっている。
だから笹山はあんなにも熱っぽい目を覚えた。対になって踊る黒門にいつだって挑戦的な目を向けてくるのだって、早く自分なんかとのペアを解消して辞めてしまえと言うメッセージなのだろうと分かっていた。
それでも好きになるのだから実に自分も好き者だ。
前のダンサーが捌ける。一人で板付く。網のタイツに赤い靴、逆立てた赤毛といつもよりもずっと大袈裟にしたメイク。そして、欲しいものはたったひとりだけ。
低いベース音が響き、後ろからスポットがステージの前へと走る。そして自分が照らし出されたのを感じたとき、黒門はセットの椅子に脚をかけて、にたりと笑うのだ。
バンドボックスの前、スタッフの席に、笹山が居るのが見えた。隣に加藤が座っているから、今日はきっと接待、というやつか。いいさ、好きにすると良い。惚れた自分の負けだから、きちんと笹山を落としてあげようという気でいろと、たったそれだけだ。
いつもよりもスピーカーから聞こえる爆音が気持ちいい。ただ踊っているだけではない。さざめくテーブルに舐めるように視線をよこしてから、最後に下手のたったひとりを睨む。
響く爆音と走る色の光のなかで呟く。
「今に見てろ、兵太夫」
欲しいものは数えるまでもない。
目眩く光の渦のなかで彼の顔は見えなかったけれども、見えないくらいがきっとちょうど良かったと思う。化けるのには、他のものは見えない方が、たぶんやりやすい。
*
2011/06/06
初出はピクシブ。素直になれないめんどくさい人たち