ガラスの壁にぺたりとへばりつくと、冷たくて気持ちが良かった。額の辺りは既に脂汗が滲んで、殆ど上げている前髪が気持ち悪い。足下はふわふわと浮いているのに、胸の奥の方がじんじんとすごい音を立てている。
端的にいえば酔っ払った。
自分のことを酒に強いとは思っていたけれども、どうにも加減を見失ったらしい。いつもの酒盛りは、今回はいつもよりも小じゃれたバーで敢行された。曰く、先輩の彼氏が貸し切ってくれたとか、なんとか。
とはいえ、流石の伊作も、この酒盛りの話を雑渡にしているとは思えない。なんとかかんとか上手く言いくるめて、自分たちに楽しいこんな機会を設けてくれたのだろうと思う。現に高層ビルの同じ方向に出てきたのは伊作と左近だけ、この二人だけを見てまさか保健委員の酒盛りが月例だと気付くほど雑渡は保健委員を知っているわけではない。
他の委員たちは別の地下鉄の乗り場に消えて、伊作は雑渡の迎えの車に乗っていった。手を振ってから、自分の乗るべき地下鉄の乗り場へ向かおうとして、左近は足下が覚束ないことに気がついたのだ。
安い混ぜものではなく、正統なカクテル。
妙なところで機会に恵まれているとはいえ、左近はまだ飲酒が許されてほんの僅かな日数しか経っていない。法律上で飲酒が許されるようになってから、初めての集まりが今日だった。それゆえに、伊作も酒盛りの場所をいつもよりも張り切ったところにしてくれたのだ。
許されると、いけないことをしているという背徳感が和らぐ。
いや、どうなのだろう。少なくともここ最近、毎日左近の身体を抱きしめて満足そうに笑うきつい眼のあの人は、自分に課していたボーダーラインを越えた瞬間、あまりにも貪欲に変わった。手を出していなかった果実の味は甘いのだろうか。喰われている当の本人としては、まったく笑い事にはならないのだが。
さて、気分が悪い。
左近はどうしようか迷って、ううん、と唸って、ファッションビルのガラスにもう一度額を当てて、はあ、と溜息をついた。オフィス街の休日とあって、人通りは多くはない。目の前の大通りにはタクシーも多く行き交っているし、少し落ち着けば地下鉄に乗るくらい造作はないだろう。ただあまり酔っているという状態に慣れていないので、どうして良いのか分からないのである。
今日は先輩たちにお祝いされてくるんです、と報告すると、高坂は目に見えてむっとした。どうして、と尋ねると、私もまだ全てをものにしていないのに、なんて言っていたっけ。
独占欲を向けられるのは正直心地良かった。あれだけ、欲しくて欲しくて仕方なかったものが、掌を返したように自分を求めてくれるのである。喜んでしまうのはこれが女の本能という奴か、いつのまにかこの性別にもすっかり馴染んでいたのだと思う。そういえば、伊作もあれだけ女の性を使いこなしているのだ。そのあたりができるのは、当然のことなのかも知れない。
だって、欲しかったんだもの、と伊作がいうところは、妙に絵になる。
水でも飲めばいいのだろうが、生憎視界には自動販売機もなかった。たぶん、高坂に連絡すれば迎えに駆けつけてくれるのだろうと言うことは分かっていた。けれども、いざ彼の身体を受け入れるようになると、上手く言えないセンチメンタルにやられて、顔を見たくなかった。
けれどもどうせ根回しはされていて、見慣れた車がすっと滑り込んできて、路肩に止まった。もはや帰るべき家よりも自然に来る迎えに、違和感を覚えなくなっている辺りかなりやられている。
ビルのガラスよりもずっと分厚く感じるはずだった車の窓、助手席のそれを下ろして声を掛けてくる。雑渡が伊作を迎えに来られたと言うことは今日の仕事が終わったのか、あの男のことだから仕事だけ抜けてきたのか。少なくとも、高坂が左近を迎えにきたということは、その二人ぶんを抱えた上司は気が気ではないのだろうか。
「帰ろう、心配した」
こう言わせたいが為だけに、女は何だってすることを、彼はきっと知っていると思う。
慣れたシートに滑り込む。正直なところ胸の辺りがぐるぐるしていたのでシートベルトはつけたくなかったが、そんなことで違反切符を切られるのも馬鹿馬鹿しい。やむなくシートベルトを留めると、その上、心臓の辺りの一番気分の悪いところに掌を当てられた。
「今日はほんとうにしんどそうだな」
「あまり強くないので」
「ばれている嘘をつくのは止しなさい」
ふふ、と笑う。あまり気分は優れなかったが、高坂に秘密を抱えているのも楽しかったし、見破られるのはなおのこと嬉しかった。注視されているのは薄い胸元ではなくて顔だった。人通りこそ少ないが、車通りはそこそこにある大通り、そんな顔で見られても何も出ないのに。
「車、出して大丈夫か?」
「ええ、そんなにひどくないですよ」
「そうか」
胸元に置いていた掌を顔の前に持ってきたかと思えば、高坂は左近の唇をひとつ撫でた。食べた物やら酒で塗れた唇はあまり美味しそうに見えないのではないだろうか。首を傾げると、高坂は今度は左近の膝の上に手を伸ばした。
さっきからなんだこの男は、まさかこんなところで。
最近の求められ方からするにあり得ない話ではないけれども、その、車でするのはもっとこう山の中とか高速道路のパーキングエリアとか、と知っているような知らないような話をぐるぐると頭の中に回している間に、高坂は左近のバッグから何かを探り当てたようだった。え、という声を出すと、探り当てたグロスをたっぷりと唇に乗せてくる。
「誰に見られるか分からないから、きちんとしないとね」
「……運転席の恋人にグロスを直して貰うのは、きちんとしてるんですか?」
「さあ、ああ、少し顔色が良くなった」
たぶんそれは顔色が良くなったのではなくて、動転して急に顔に血が回っただけではないだろうか。察したように、高坂はあっさりと身を引いて、ドリンクホルダーのミネラルウォーターのボトルを指さした。
「帰っている間に一本飲みきりなさい」
「飲みきらないと?」
「口移し」
それならば敢えて、帰ってから、少しの酔いを残して彼の唇に甘えても良いかもしれない。慣れない酩酊は心地良く、左近はまだ前後不覚になるほどの泥酔は知らない。ただ、自分をものにしたいらしい男の時々得体の知れない欲求に心地よさを覚えるだけだ。
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2011/09/04
初出はピクシブ。設定はそのままお祝いした方の現パロ