現と知りせば

「貴方の望みは何なの?」
 不意に彼女は言った。
 煌帝国の巨大な宮殿の中でも、中庭の眺めがとりわけ贅沢な部屋。窓枠の際に置いた椅子に座る彼女は、たとえ夏黄文がいてもいなくても、一つの立派な絵になることだろう。見下ろした中庭には彼女の好きな藤が咲き乱れていた。
「姫君のお望みとあらば、それが私の望みです」
「そう。ねぇ、藤を一房摘んできて」
 彼女の言葉は、夏黄文よりももうひとつ後ろにいた侍女にかけられたようだった。夏黄文は花を記号としか理解できないから、どれが美しいかなんて判断できない。彼女の頼みを聞くのには確かに侍女の方が良いだろう。
 手を掲げて礼を取り、部屋から出て行く侍女を見送りもしないで、彼女はぼんやりと庭を眺めていた。何故呼び出されたかはっきりしないが、彼女は中庭を見ているだけでは飽きたらず、誰か話し相手でも欲しかったのかな、と思った。彼女は元々、年の割に高度な教養の持ち主だ。例えば貴族の娘のように彼女と同じような高等な教育を受けてきた者ならばともかく、並大抵の者では相手すら務まらないだろう。
 夏黄文は、姫君のおつきとしてではなく、一文官として預けられた仕事をしていた。それを姫君に呼び出され、仕事中ですと断れば仕事を持っていらっしゃいという。もとよりどこでもできる書き物の整理だ。
 そういったことで頼りにされているのは、別に、負担ではなかった。むしろそれでこそ、彼女の付き人としての役割が余計に強まるというものだ。年若い姫君の部屋に呼ばれる男という立場の悪さは否定できないが、まだ幼い彼女にそんな思惑があるとは思えないし、傍目にもそうだろう。
 彼女は綺麗なものと強いものが好きなので、そういったものに憧れている。そして、文官であり教育係であるという目くらましのきいているあいだは、夏黄文は彼女に対してどうにかしなければならないという義務感なんて持たずに済む。高い教養は自分以外の物事に向けられて彼女の振る舞いを豊かにしているが、年若いぶんだけ、彼女の内面は未だ幼かった。
「バルバッドはどんな国かしら」
 外国に嫁ぐというのは、そのまだやわらかで形のない彼女の内面にどういった影響を及ぼすのだろうかと。考えないわけではないのだけれども、考えても答えが出ないので、そのことはあまり気にしないようにしていた。
「こちらよりは、少なくとも乾燥しているでしょうね」
「では、藤は咲かないかもしれないわねぇ」
 くすくす、と笑う横顔は所作を存分に扱える女性のそれで、ああ、と夏黄文は思った。書類を見ていたはずの自分が、彼女の横顔を見ている。なんという恐れ多いことだろうか、と。
「ねえ夏黄文」
「はい」
「どのように私を使っても良いわ」
「は」
 丁度侍女が外したからと言って、これから外国の王の嫁となる煌帝国の皇女が言っていい言葉ではなかった。思わず短い音で疑問を示した夏黄文に構わず、他人事のように彼女は続ける。
「私はこうやって産まれて、政治の道具に使われることが、別に嫌ではないのよぉ。だって、その仕事は私にしかできないんでしょぉ」
「仰せの通りで」
 間延びした口調で言うような真実ではないのに、彼女はいっそ鮮やかすぎるほどの自覚を告げた。自分が育てたのはこの皇女だと思えば、夏黄文は自分のこれまでの経歴を誇りに思う、そうするべきなのだ。
 分かっている。
「どうせなら、私を育てた貴方が好きにしてくれる方が良いの」
「姫君、そのような」
「すこしくらい私の感情を汲んだらどうなのぉ」
「……御意に」
 輿入れ前の、それも輿入れ直前の、煌帝国の皇女が、従者に言うべき言葉ではないのは、彼女自身が分かっているのだろう。だからこそ彼女は夏黄文を諫める。夏黄文はそれを素直に聞き入れる自分が滑稽で仕方がない。
「私が一つの国を陥れる間に、貴方はこの国をどうするのかしら」
「はあ」
「お父様とお兄様を傷つけることは許さないわよぉ」
「そんなことを思うはずが」
「ふふ、そうね、貴方は私の影のあるものを傷つけることも出来ない」
「姫君」
 彼女を呼び止めて気付く。自分は、紅玉の横顔を見ているだけでは飽きたらず、正面からの視線を賜ってまで、彼女の立場に相応しいとは到底言えない許しの言葉を得ている。
 それを正面から受け止めれば、彼女の持てるすべての権限で奪い取ることの出来るこの世の全てを、夏黄文は与えられたようだった。いつもそこで気付く。ではほんとうに夏黄文が求めてるものは何か。この身のうちに燃えさかる野心の象徴のように、揺れる赤目の髪と瞳、それを、はたしてどうしたいのかと。
「お待たせいたしました」
 戸口から響いた涼しい声に、夏黄文ははっと振り返った。藤を取りにやっていた侍女は、それは豊かな藤を手に携えていた。きっとこの庭でもっとも美しいそれを取ってきたのだろう。
 ありがとう、そう言って、紅玉は勿論一歩も動かなかった。夏黄文はひとつ息をついて気持ちを落ち着けると、書類に戻ろうとした。ところが、紅玉の声がそれを徐に遮った。
「ねえ夏黄文、貴方が花を飾ってよぉ」
「は」
 筆を取り落とすほどに驚いた。
 からん、という音を立てて床に落ちた筆を拾いあげたのは藤を手に持ったままの侍女であり、彼女は至って何の感情も目に映すこともなく藤の花を夏黄文に差し出した。そこそこの才覚のある子女は、姫君つきの侍女として教育されており、きっと彼女の輿入れにも彼女が付き添うことになるだろう。
 それは当然のことで、夏黄文は場合によっては煌帝国に戻り彼女を案じ続けるだけで、侍女は付き人としてバルバッドでの紅玉に添い遂げる。ああ、それを、くやしいとほんの僅かでも思うなんて、もう、好い加減自覚をするべきなのだろう。
「……それでは」
 夏黄文は精一杯におとなしい声を装って、藤の花を受け取った。それは思ったよりもずっと軽く、ここ最近そんなものを持ったこともない夏黄文には新鮮な軽さだった。
 椅子を引き立ち上がる。
「どちらに飾りましょう」
「かんざしに」
 ああもうだから輿入れ前の姫君が、出かけた小言はきりがなかった。
 それでも彼女が望むことで、できることをしないなんてことは、夏黄文には有り得なかった。
 覚悟を決めて大股で近付く夏黄文を、紅玉はそれはそれは幸せそうに見守っていた。まるで異国の王子様の迎えを待つお姫様のような、先ほど零したあまりにも冷静な言葉は、その鮮やかな桃色の唇から落ちただなんて信じられないような容貌。
 ああ、なんて美しい。
「……失礼しますよ」
 せめて触れようとした瞬間に無礼者とでもはねのけてくれればいいのに、紅玉はいっそ夏黄文が髪に触れやすくするかのように身体を傾けて顔を伏せた。なにも分かっていないならばあんなことは言わない、なにもかも分かっているならばそんなことはきっとしない。
 引っかけて結ぶと、軽い藤は紅玉の赤目の長い髪に馴染んだ。己の指先が、髪の毛一本たりとも触れないように細心の注意を払った。こんなことをしている段階で何の申し開きにもならないと言うことはよく知っていたけれども。
「よく、お似合いです」
 ただの模範解答だった。気の利いたことを言えるような器用さはない。
 紅玉だって夏黄文の性格をさんざん理解しているはずだ。そういうことを心から言えるわけではないことだって彼女は知っている。それでも彼女は、言われたことに驚いたように顔を上げて、そしてはにかんで笑った。
「ありがとう、夏黄文」
 開き直りきれない自分の愚かさをかみしめるのは、こういうときだった。



「例えばお前ババアで抜いたりすんじゃねえの」
「するか」
 扇でジュダルの額を打ちながら、夏黄文はぴしゃりと否定してきた。思いの外、彼の扇は骨があって痛いのだ。ジュダルは思わず文句を垂れようと思って、夏黄文の顔を見て、珍しく、すこしだけ聞いたことを後悔した。
「そんなことをするくらいならば、とっくにものにしている」
 身近な恋の話は、大体聞かされるだけ苛々するものと相場が決まっている。



「姫君には決断力をもうすこし持って頂きたいものですね」
 下の方で何かバルバッドの国民達が諍いを起こしているのは見えたけれども、おそらく今後紅玉とこの国には何の関係もおこりはしないだろう。紅玉はなんだかんだと自分の判断が必ずしも誤りではないことを知っていた。それは道徳の面であり、王道の面ではないが。
 そして夏黄文が、王道の面から自分を叱っているのも分かっていた。
「私のことをなんでもかんでも貴方任せにしているのがいけなかったかしらぁ」
 彼はいつだって紅玉に道を示してきた。その道に従うことの出来ない自分の気の弱さには自覚があった。そういうときはいつも、夏黄文が手伝ってくれると信じていた。
「いつまでも姫君を支える立場でいられるとも限りませんから」
 彼はとても、とてもしれっと言ってのけた。
 最後のつもりで、飾って貰った藤の花は、今でも乾かして密かに胸の内、懐刀と共に秘めていることを彼には話していない。伸びた猶予は時間の問題で、紅玉は煌帝国の皇女として生まれ、その立場として得てきたものを、その立場として返していかなければならない。
 いつまでも彼と居られないことを知っている。
(じゃあ、諦めなくてはいけないの?)
「……そうねぇ」
 答える声を濁らせれば、夏黄文はすっと目を逸らした。
 狡いやつだ。
「貴方にこの権力を譲って上げたいわ」
「姫君、なにを」
「私の為よ」
 不適切な発言をすれば、夏黄文がこちらを向いてくれると信じていた。案の定そういった挑発に安易に乗ってくれる彼の左側の胸元、そっと手のひらを置いて、ぎゅ、と握った。
「そうすれば、貴方はもっと容易く私を操れるのに」
「なりません」
「そうでしょうね」
 手を離す。
 分厚い衣に覆われた彼の心臓の音すら、聞くことは出来ないのだ。
「国に戻る頃は、藤は落ちてしまっているでしょうねぇ」
 巻き上げられる砂の匂いは紅玉にとって馴染みの深いものではない。
 せめてそういうところでだけでもいい、彼の心を知りたかった。たったそれだけのことすら、自分達はうまくやりすごせないのだ。



2011/09/04
初出はピクシブ。夏黄文好きすぎてたまらんもんがありますが女子の方が正義なのでこの仕上がりです。いろいろとひどい。