爪の先まで蜜の香り

「潮江先輩」
 呼びかける声はまだ幼さを残してかわいらしい。彼も足音を殺していたわけでもないし、なにせこちらのほうが二年は上手なので、彼がこの教室に近づいてきていたことに気づいていないわけではなかった。だが、厄介者がいるこの教室にわざわざ飛び込んでくる彼の反応が見たくて、文次郎は部屋から出ることをしなかった。
「どうした、田村」
「委員会の資料のことで」
「ああ、待て」
 さながら彼が気づいたのになんか今気づいた、みたいな振りをして、それで漸く文次郎は立ち上がる。隣の仙蔵が意地の悪い顔をして微笑んでいるのにも気づいていたし、それで三木ヱ門の方を見ているのにも、三木ヱ門が仙蔵に不愉快な思いをしているのを仄めかせながらも笑顔を絶やさないのもわかっている。
 さらに言えば。
「これは、先だって教えただろう」
「確認したいことがありまして」
 仙蔵が本当はわかっていないこと。三木ヱ門は、資料のことなんて確認しないでも一人でできてしまうくらいに真面目で賢いし、それと裏腹にこんなことで言い訳でも無理矢理作らなければ、文次郎のところまで来られないと言うこと。
「三行目なんですが、この数字、間違いではありませんか」
「どれだ」
 優秀な四年生は、どこかの委員会の作った資料に間違いを発見した場合、それをいちいち文次郎に確認しなくても、訂正できるだけの能力を持っているし、それだけの技能を叩き込んだのは間違いなく自分だった。それでも、こうしてわざとらしい言い訳を携えて、文次郎に会いたいという一心だけで、こんなところまで来てしまう三木ヱ門を、それはもう、どうしようもないくらいに。
「ああ本当だな」
 愛でていると言うこと。
 他者の間違いを見つけただけにしても、こうして資料の点検を行っていたことを褒めてやらなくてはならないし、それでふたりきりになるための言い訳を作れてしまう三木ヱ門がたまらなく可愛らしく見える。ああ、まるで恋は盲目。
「今日の夕飯の後、委員会の部屋に来い。……この程度の訂正ならば、お前と俺で十分間に合うだろう」
「かしこまりました」
 アイドル云々はさておくにしても、見てくれに関わる動作に気を付けているだけあって、丁寧ながら素早い所作で頭を一つ下げる。そして、三木ヱ門は僅かに目尻を垂れさせた。文次郎がそう期待して見ているだけだから、そう見えただけかも知れない。
 余韻が残るのよりもすこしだけ素早く、彼は回れ右をした。一歩遅れて、甘い茶色を通り越してもはや蜜色に近い髪が、一房結わえられて、毛先だけがこちらをくすぐった。その髪を彼の同学年の男が手伝っていることを思い出すだけで、こちらが胸をかきむしりたくなるような嫉妬に駆られることを、聡いこの子は気づいているのか、いないのか。
 今度こそすたすたと歩き去るその姿が見えなくなる前に教室に戻れば、性悪な笑顔を浮かべた同級生は辛抱たまらないといって声を上げて笑った。よく整った容姿がこういうときには大変役に立つ。こちらの腹を立たせるために。
「気の強い子だね」
「田村か」
「私のことを睨み付けるなんて」
「そんなことをしていたのか?」
「君がじじむさく立ち上がってる間にね」
 周りの気配、もっと悟らなくちゃ、と、まるで歌い上げるような芝居がかった仕草の似合う仙蔵は言う。目下、三木ヱ門の一番の心配事がこのたちの悪い同級生であることを知っていて、それでも文次郎はそれを捨て置く。もっと、嫉妬させたいから。
「文次郎も相変わらず意地が悪い」
「どこが」
「あんなふうに嬉しそうに笑う子を、振り回すなんて最低じゃないか」
 強い目の色をした彼がそういって肩を竦める。
「……最低でも結構だ」
「これは結構」
 低く唸って、仙蔵に笑われる。
 けれども、と思うのだ。今日の夕刻に呼び出した三木ヱ門が、さきほどこの部屋を訪れたときのような取り繕った様をどうやって投げ捨てて、どんな可愛い顔をして自分の前でへたくそに甘えるかと思うと、それ以上に幸せなことなんてあるものか。



2011/02/05
初出はピクシブ。初書き