飴色理性境界線

 する理由はひとつしかなかったが、しない理由ならば両手では抱えきれないくらいにあった。男同士だから、三禁に触れるから、彼がまだ幼いから、誰に見つかるか分からないから、等々。
 だから文次郎は、三木ヱ門にどれだけ接近されても、知らぬ存ぜぬの態度を突き通していた。子供ではない三木ヱ門にはもちろんそんな文次郎の態度は見透かされているので、彼も無理矢理文次郎を振り向かせるような真似はしなかった。それに、何をされても文次郎は自分の理性がもつことを信じていた。
 下半分の学年は既に部屋に返していた。使い物にならないものを留め置くのは宜しくないと取り計らうくらいの優しさは文次郎にもあった。むしろ、それだけではない。視界をちらちらとする飴の色、舐めたらどんな味がするのだろう。
 文次郎は口腔内で分泌された唾液を嚥下した。上下した喉仏の音が彼の耳に入っていなければいいと思う。彼を見ていると、たった一つの理由が煩く叫びだす。文次郎は手元の帳簿に視線を落とした。
 入れ替わるように三木ヱ門がこちらを見るのがわかった。彼はたぶん、自分にされたいと思っていることがある。そして、文次郎もそれをしたいと思っている。だが、それをしない理由は、たくさんあるのだ。
 三木ヱ門が細い腰を持ち上げて、こちらににじり寄る。
 何も知らない。何も知らないと言う顔をしておけば、たぶん三木ヱ門だって今日も逃げ切ることが出来る。逃げるべきは彼のほうだ。
「潮江先輩」
 隣まで来た彼を追い払えない自分の意志の弱さがおかしい。
「どうした」
「私、考えてたんですが」
 帳簿からわざと顔を上げない文次郎を三木ヱ門は笑わない。その代わりにたったひとつの文次郎の、する理由、をかきたてる声をしているな、と思う。帳簿に視線を落としている文次郎の視界にも、飴の色の髪がするりと落ちる。
 雫のようだ。
「やはり我慢は気性に合いません」
「お前のか?」
「先輩のです」
 笑った声が細く揺れて、ああ、これはいけない味を知ろうとしている悪い子供のそれだ、と潮江には分かった。そして見透かされているのはこちらだということも察せざるをえないのである。
「私は、先輩が私の様子を窺っているのもあまり落ち着きませんし、そんなことをするくらいならばいっそ」
 三木ヱ門がそこまで言って話すのをやめたから、意図を問うつもりで顔を上げた。顔を上げたらそこに、飴色の髪が思ったよりも近いところで揺れていた。ああ、その近くで、雨の中でも一番甘い林檎かべっこうの色を帯びた目がこちらを見てまあるく笑う。
「私が破ります」
 膝をもともと立てていた三木ヱ門の唇が上から自分を襲った。別に奪われたとは思わなかったのは、こちらだってはじめてではなかったからだ。三木ヱ門が色事の授業を受けたのかどうかはわからない。ちょうどそれくらいだ、という時分だろうと、推察できるだけのことだった。
 触れた三木ヱ門の唇は柔らかかった。彼はきっとさぞ薄く荒れた文次郎の唇の表面の感触に絶望することだろう。当たり前だ、こちらがどれだけ必死でこらえていたと思っているのだ。そのやわらかさ、飴のような彼の色味、一度触れたらきっと戻れなくなると思っていた自分の理性の切れ目はどこにあるのだろう。
 たった一つの、積極的な理由。
 彼を好いていると言うこと。
「言い訳ならあとでいくらでもお聞きします」
「煩い奴だ」
 文次郎は三木ヱ門の結った髪の根元あたりをぐっと掴んだ。彼の小さな頭蓋は、文次郎の手のひらにちょうど納まる。人差し指と中指のあいだに挟んだ彼の纏め髪は、甘い匂いもしないが、ただつややかだった。
 引き寄せて、踏み越えるのはひどく容易いことだった。
 理由なんてあさはか。
 好きで、欲しくて、仕方なくて。
「こういうときには、目を閉じてるもんだ」
「できません、勿体無くて」
「どれだけ、もつかな」
 引き寄せた不安定な体勢で三木ヱ門の唇を舐めると、驚いて三木ヱ門の力はがくんと抜けた。ああ、唇を舐めたくらいでこんな揺れ動く体。自分が下になって畳に仰向けに転がり、上に三木ヱ門の体を乗せる。彼の体を傷つけるような真似だけはしたくないと言う我儘なこの心境の正体を、彼はまだ分からないだろう。
 馬鹿だな。
 飴の一口目が甘いなんて、分かっていることだ。
「甘い」
 呟けば、負けじと、先輩も甘いです、なんて言う。そんなわけがあるかと抱き寄せる体の熱が、たくさんの理由をすべて見失わせる。ああ、なんて甘い飴、甘い罠。



2011/03/05
初出はピクシブ。駄目な先輩と先輩を駄目にしたい後輩。