雪が降った日だった。
ふと風を感じて見上げれば障子の傍がとても寒くて、それで三木ヱ門は夜の間に降り出した雪に気付いたのだ。空気が冷たさのなかに湿気を含んでいたから今日は降るかも知れないとは思っていたけれども、雪を見ればやはり、心が躍る。僅かに障子の隙間をあけてしまわざるを得ない。寒いし、火気が扱えなくなるばかりで良いこともないけれども、それでも、これは四年生になってからは初めての雪だ。
「どうした」
「雪ですね」
後ろから潮江に声を掛けられて、振り向かずに三木ヱ門は応えた。
下級生はとっくに部屋に帰していた。冬場のこんな時間帯に火鉢しかない会計委員会室で、居残りをさせたために下級生に風邪を引かせたなんて聞こえが悪すぎる。もともと一年生にだって徹夜をさせることで評判の悪い会計委員会だ。
それでも、三木ヱ門にとって見れば悪いばかりではなかった。潮江と話すのは楽しかった。これでも向上心だけは一人前に持ち合わせているので、二つ上の先輩と話していれば、自分の知識がまだまだだということや、次はこういう事を勉強してみようという意欲がわいてくる。
下級生が居ればそちらの面倒を看なければならないと感じるが、潮江しか居なければ三木ヱ門はただの後輩に成り下がることが出来る。無責任な立場というのは、何かとやりやすいものだと決まっている。
「冷えると思ったら」
「空気も湿っぽかったですしね」
「よく気付いたな」
「過激な武器には水気は大敵ですから」
何食わぬ声を装うのに苦労したが、さりげなく応えられていたら上出来だろう。潮江に褒められるのは、慣れなくて嬉しい。
潮江は厳しい人だが、褒めるときには手放しで褒めてくれることが多かった。単に素直なのだと思う。腹の立つことがあれば怒るし、感心することがあれば褒めてくれる。三木ヱ門はけして自分が屈折しているわけではないと思うのだが、そういうことに気がつくというのはやはり潮江の方がより、そういった部分が強いのだろう。
「明日の朝には積もりそうだな」
三木ヱ門はぎょっとした。
先ほどまで二人は、部屋の入り口あたりと奥の方で、黙々と算磐をはじいていたはずだった。障子の近くに座っていた三木ヱ門がたまたま静かな雪の音に気づいたから振り向いて障子を開けただけで、後ろに彼が近づいている気配なんて全く気づけなかった。
まだまだ自分も甘いというのが三割くらいで、七割くらいはそんな至近距離に潮江がいきなり近づいてきたことで頭がいっぱいだった。
もとよりあまり、それこそ腕を振り回したら人がいるような近さに人を招き入れるのが得意ではない。忍術学園は必然的に人との距離が近いのだが、必要もないのに人と近いところにいるのは、三木ヱ門にとってはとても怖いことだった。
あんまりに驚いた目をしてしまったのか、潮江のほうがかえって驚いた目をした。
「どうかしたか?」
「いえ、あまりに近くに先輩がいらしたもので」
「気づかなかったのか、まだまだ鍛錬が足らんな」
「はい……」
全く持って彼の言うとおりだ。潮江が自主的に気配を消したわけではないだろう。なにせ自分たちがいるのはいつもの会計委員会室だ。かくれんぼをする必要はない。
となると、気を抜いていた自分の方に何かの不足があるわけだ。三木ヱ門はしょんぼりとうなだれたが、そうしたら自分の後ろの方で束ねた髪がうなじをくすぐって鎖骨のあたりまで落ちてきた。
「髪が伸びたな」
何の気もなさそうな手つきで、潮江は三木ヱ門の髪を掬った。今度ははっきりとその動きを目で追っていたのに、潮江の手が自分の髪なんかに触れてきたという事実に驚いてしまって、三木ヱ門はまた肩をすくめた。
潮江はすぐに手を引いた。
「そう、です、ね」
「さっきからどうした」
「全体的に先輩が近いんです!」
「そうでもないと思うが」
障子にあまり体重をかけて、紙が破れたり障子ごとひっくり返ったりしては困る。ただでさえ人の気配の耐えない忍術学園で、騒ぐだけでなにかいけない噂が立つかもしれないのだ。
潮江は春からどこで働くのかを教えてくれなかったが、どこかで働くことが決まったことは教えてくれた。いなくなると思えば思うほど、その背中がとても遠いものに思えるようになった。
なにも今生の別れというわけではないが、そうなる可能性だって十二分にあった。最近はそういう目で潮江を見ることが増えた。
そうなればなるほど彼は自分が二年後にそんな風になれると思えないほどに立派な忍者のたまごであり、近頃の三木ヱ門はすっかり焦っていた。同級の滝夜叉丸が似たような空気をにおわせて、綾部の掘る穴が甘いあたり、自分たち全員がそれを感じているらしい。
雪が降り始めればあっというまにあたりは白く閉ざされ、それがほどけるころには彼らはもうここにいない。追いつけないことを思い知らされまま、終わりを告げる季節の始まりがやってきた。
障子の際でかろうじて体勢を保っている三木ヱ門の落ち着かない態度を訝しむように、潮江はなおのこと身を屈めてきた。そうればもう碌に正視できたものではない。のしかかられた体勢で後ろに倒れてしまえばまるでそれは春画の情景だ。
それが頭をよぎったとき、不意にすとんと理解した。
(ああ)
足りないのは技術だけではない。
長くあこがれにしかすぎなかったものは、まるで言い訳のように距離をあけるのにちょうど良かった。あこがれの先輩に、そんな易々と近づいてはいけない。むしろ潮江が近づいてくることさえも、拒絶するべきだった。
なにもわからずに突然こんな風に距離を詰めてくる人ではない。いままでだって何度も委員会の都合でふたりきり、この部屋で夜を過ごしたが、こんな距離に潮江が踏み込んでくることはなかった。
たぶん、三木ヱ門がそんな距離が得意ではないことを、彼は知っていた。
それが今日、唐突に近づいてきたのは、何の計算もなしに、というわけではないだろうと思った。ひととひとの距離が近い学園で、これまで一度も碌に指先を触れさせたこともないような人が、唐突に三木ヱ門の体にのしかかるような体勢で雪を見ている。二人で見るのはきっと最初で最後、もし雪というものが、冬という季節が、あるいは卒業という時期がそういう気分にさせるだけならば、それだってかまわない。
「好きになっちゃった、かも」
三木ヱ門は雫した。
虚を突かれた顔をした潮江は、さもおかしそうに笑った。息を吐くように笑ったせいで、その笑顔はあまり器用には見えなかった。けれどもそう、潮江というひとは、器用な人ではない。忍務ならばともかく、日頃は、素直に不器用に、感情をさらけ出して生きている人だ。
雪が冷たい夜で、しんしんと降る雪の静かな音がむしろすべてを閉ざし隠してくれるような気がした。三木ヱ門はずりずりと後ろに下がるのをやめたし、潮江はわざとらしいほどゆっくりと三木ヱ門に覆い被さった。静かに、静かに灯る熱の音を聞いたけれども、それは雪の夜らしい、空耳なのかもしれなかった。
(縋るものなんて多くはいらない)
(この体があれば、それで)
ひどく刹那的で、どうしようもない。
そんな、恋をしていた。
*
2011/05/15
初出はピクシブ。身内お馬鹿企画に提出。