雨の話

 雨が止まない季節が来た。
 雨は沢山のいいものと悪いものを持ち合わせている。気配が消せる代わりに気配が読めなくなる。音が隠れる代わりにぬかるみに足を取られる。紙はぐしゃぐしゃになるし、その代わりに、きり丸は身動きが取れなくなる。
 学校が休みの時期ではないので、アルバイトに出掛けられないと言うだけのことだ。二学期からの分は夏休みでどうにか取り返すことは出来るだろうが、働かないのはどうにも落ちつかない。
 何年経ってもは組から上がることの出来ないきり丸を、それでも何年経っても土井は面倒を看てくれているわけで。もちろん、帰る先は毎度あの長屋だし、自分もすっかりその気になっているので、なんというか、その。
「土井先生」
「んー?」
「膝、窮屈じゃありません?」
 補習でこの体勢。他の先生が見たら何と嘆くことか。
 教室で、書き物をしているきり丸の膝の上に土井の頭が乗っている。あたりには雨音が絶えないから、誰かが来たらどうしようかと思えばやるべき対処はひとつなのに、その髪が膝の上で擦れるのがくすぐったいのに心地よくて、きり丸は結局そのまま、動くこともままならない。
「いつまで経っても物覚えの悪いきり丸には、これくらいしないとインパクトが足りないかと思って、な」
「ありすぎて覚えられませんよ」
 書き取りによる暗記というのは単純なだけに役に立つ。
 口頭試問で間違えた単語をそれぞれ百回書きなさいといわれたときには寒気がしたが、補習はお前しかいないし私がつきっきりで見ていてやると言われたときにはもうそれはただの期待に変わっていた。
 交わしたのは口約束だ。
 卒業して、まだきり丸が土井に抱かれたいなら、抱いてやる。
 幼い日の自分も馬鹿なことをして焦ったものだと思う。それなりに女装に自信の出てきた今時分に彼を押し倒せば、なし崩しに事を得られたのではないかと思うと、一年生のときに泣きわめいたのが馬鹿みたいだ。
「なあきり丸、お前はまだ私が好きか」
「何言ってるんですか大好きですよ」
 土井は最近、きり丸の言葉が冗談ではなかったのか確かめるようなことを良く聞くようになった。むしろ冗談で済めば助かるのだが、どうもそうはいかないのが厄介で、こんなふうに膝に頭を乗せられてそんなことを聞くだけ聞かれて、それで自分はどうしたらいいのかわからなくなるのだ。
「そうかそうか」
 土井はこの話題のときだけは絶対に表情を読ませてくれない。そういうところも好きだから盲目だ。いっそ書き物をする筆にたっぷり含ませた墨をその目に落としてやろうかと思うけれども、墨が勿体ないのが半分、その目が見えなくなって彼が笑わなくなるのが怖いのが半分、きり丸は到底そんなことは出来そうにないと溜息を吐くのだった。

(雨音が私の心音を隠してくれているうちはまだいい、この雨が上がったら?)



 大体のものごとを直感で済ませてしまうのが自分の悪癖だと三木ヱ門は知っている。真面目なのは忍術に関してで、すこし気を抜けばどんどん大雑把な方向にものごとを転がしてしまう。
 その性質は委員長にはとっくに筒抜けで、すこし隙のある気持ちで帳簿の照合をすると途端に彼に見つかる。注意力が散漫だというわけではない。ただ時々、強い何かに引き寄せられて気が浮つくのだ。
「田村」
 ああ、まただ。
 下三学年が全員揃って校外実習に出てしまっているので、学園はとても静かだった。それもこうやって雨が降りしきる中、会計委員会の部屋はまるで隔離されたふたりの世界、三木ヱ門はそのなかでぼんやりと雨音を数えていた。
「すいません」
 叱られる前に謝った。ぼんやりしていたのは事実だし、仕事は尽きない。頭を左右に振って、どこまで追っていたのか分からない段を一から戻って数え直すことにするしかないなぁと思ったところで。
「何を考えてるんだ」
「え」
「ぼんやりしてるとき」
「ええっと、いまは雨音を数えていました」
 聞かれたことに嘘をつくことはいけないことだし、嘘をつくような疚しいことを考えていたわけではない。少なくとも自分はそのつもりだった。
 表の方を浚う思考がそうだというだけで、ほんとうは心の内側では深く求めているその腕が目の前にある。ほんのすこし、筆を置いて伸ばせばすぐに届く距離、自分ではどうやって鍛えてもあんなふうにはならないだろうなという骨格。
 目を見て話すのも気恥ずかしいのでその指先を見ながら三木ヱ門は正直な答えを寄越したのだが、気むずかしい先輩はそれでは不満だったらしく、ひとつ唸るとその逞しい指で三木ヱ門の手元を掴んだ。
「な」
「たるんどる、と言いたいところだが、雨は気を削ぐからな」
「は、はあ」
「誰もいないところで、そんな顔をされては、なあ」
 机の向こうからぐっと引き寄せられて、あらゆるものをひっくり返さないようにおっかなびっくり立ち上がって三木ヱ門は彼の隣に寄る。座るよりも前に膝の上にすとんと落とされたからだが、じっくりと彼の言葉を反芻する。そんな、顔?
「どんな、ですか」
「ぼんやりと、こっちを見ていただろう」
「えっ」
 雨音を数えるのに集中していたのは否定しないが、それで彼を見ていたというのならばきっとそうなのだろう。三木ヱ門は自分が耳元まで真っ赤になるのを熱で感じ取った。
「抱くぞ」
「……はい」
 所詮はすべて自分の内側の欲求。
 そしていまならば、きっとあらゆることを雨が隠してくれる。
 三木ヱ門は寄せられる唇の熱に答えようと自分も唇を開けた。そのころにはもう、雨音を幾つまで数えたかなんて忘れてしまっていた。

(下心)


20100207-20111010