たまに、手合わせを願われることがある。
とはいえ自分は政務官で、相手は国王であるため、ジャーファルが剣の腕について教えることが出来ることが多いわけではない。しかも立場のことを差し引いても、ジャーファルの場合、正面からの剣での打ち合いなんて、一番下手をしたときでなければ経験することがない。だからはっきり言ってしまえばジャーファルは剣は得意ではない。
シンドバッドはそれで良いと言う。お前のような身軽な人間を追い詰めてみたいのだ、と言う。それは手合わせと言わずしてもっと違う何かだと思うのだが、とにもかくにも剣を求められているわけではない。なのでジャーファルは手合わせを願われて、自分の手が空いているときに、それを拒んだことはない。
暗器は流石に外しておく。いままでの人生のおかげで、こと、戦闘における自分のことは信頼出来ない。モルジアナを見ているとつくづく自分の身につまされて思うのだが、幼い頃の刷り込みというやつは馬鹿にならない。ジャーファルの心臓は、?を持っていれば、どうしてもこれを相手の身体に打ち込まなければならないと信じている。そして他の武器に変な勘を覚えたくもないので、ジャーファルは何の武器も持たない。結果的にジャーファルは素手になるが、別にジャーファルから手出しをするわけではないのでこれで構わない。むしろ、体術を鍛えるのには良い機会であるくらいだ。
シンドバッドは剣が駄目ならばせめて暗器くらいは装備しておくようにジャーファルに言うのだが、とんでもないことだとジャーファルは思う。たとえ間違いだとしても、彼を殺すなんていまさら自分にはもう出来ない。それを目的としていた頃とは違うのだ。彼がそんなことをするなといって自分を救い出してくれたのに、それを自分から?を彼に打ち込むところなんて見たくはなかった。
そんなわけでジャーファルは基本的に手合わせを願われたところで、自分は武器を持たないで、避けに専念するだけだ。実際のところそれで手一杯だったりもする。あの男はまったく、飄々としているようで隙がない。可能な限り、政務官としては、政務に携わって欲しいとは心から思っているものの、単純に、彼が王であることを考えれば、武芸に優れていることは好ましいことだ。それで、他のものでも武芸に一目置かれるべきものを多く置いているシンドリアの中で、自分が選ばれてそういった役目を仰せつかっていると思えば、これはなかなか、悪い気はしない。
シンドバッドは木刀を構えていた。あれが実剣だったら、そう、彼の金属器だったら、触れただけでたぶん相手は焼き切られてしまうのだろう。いまからジャーファルが彼を相手に、こんな夜中にするのは、本気の鬼ごっこだった。そして、剣先ひとつ触れられたらおしまいだ。まるで日頃の彼と自分のようだと思ったが、それは口にはしなかった。口にしたら最後、どうしようもなくなることを知っているからだ。
「では、行くぞ」
「いつなりと、どうぞ」
暗器とクーフィーヤは外して鍛錬場の隅に置いてあった。シンドバッドも同じように、本来つけるべき重たい飾りは全て隅に外していた。請われた時間がそもそも夜だったので、鍛錬場には人がいなかった。これはとても助かる。彼の気が周りに散らないというのは、こういう場でもないと正面から彼を見ることが出来ないジャーファルにとって喜ばしいものだった。
正面から見られない、ただの臣下でいられない、つまりそういう夜は、それはそれで都合も悪いのだけれども。それはもうすこしあとでいい。そんなことを考えているのを知られたが最後、いろいろと駄目になってしまうのは自分のほうだ。
シンドバッドはいきなり足で地を強く蹴って、間合いを詰めてきた。とはいえ、彼だって、移動に気を取られている間は、複雑な剣筋を描くことは出来ない。ジャーファルはちょうどシンドバッドが通り過ぎたところを埋めるように動いた。手をおいて姿勢を低くしてから、くるりと彼の真後ろに回り込む。目の前から目標であるジャーファルが消えたことに小さく息を呑むシンドバッドの後ろ姿は、なかなか良いものだと思った。優越感を持つことが出来るものは、どんなものであれ気分が良いものだと思う。
そのまま足払いを掛けるべく両足をそろえて、腕を軸にぐっと蹴り出す。ジャーファルが後ろに回った段階で、シンドバッドはその場でもうひとつ足を進めて攻撃を躱しきった。ジャーファルの得意な間合いなんて見切られているわけだ。ジャーファルは後ろから攻撃するのが得意だといっているのに、逃げるなんて卑怯だと思ったが、口には出さなかった。いくら敬愛するシンドバッドの鍛錬につきあっているとはいえ、あの木刀をまともに食らって痣をこさえるのはごめんだった。
振り向いたシンドバッドはすぐには攻撃を繰り出さず、真正面で沈み込んでいるジャーファルをじっと見据えた。その仕草だけで、ジャーファルの動きを捉えることが出来ることを、ほんとうはこの王は知っているのだと思う。大変気にくわないことに。
「ジャーファル」
「なんです」
「星が綺麗だなぁ」
「え?」
唐突に言い出されたことの意味が分からなくて、ジャーファルはつい空を仰いだ。鍛錬場は天井の代わりに、分厚い布が空を覆っていて、もちろん雨漏りもする。雨季などは鍛錬がしにくいのがシンドリアの宮殿の悩みだった。複数枚の布を張ってあるので、隙間から空は垣間見ることはできる。なぜ、いま、そんなことを?
答えは簡単で、いやな足音が、ざ、と遠くで聞こえた。呼応するように、は、と息を呑んだジャーファルは即座に後ろに飛んだ。悪趣味な王の突き立てた木刀が、自分の立っていたところに軽い砂埃を巻き上げる。大変不愉快だ。そんなどうしようもない睦言を吐いてみせた王も、それに馬鹿みたいに乗っかった自分も。
「ええそうですね、とても」
だから、王をぶちのめそうなんて思ったのも、そう、ほんの、出来心。
自分が振るった木刀の振動から未だ抜け出せていないシンドバッドの目の前、ほんの少しだけ彼の左手側に飛んだ。常に左側が手薄です、と言い聞かせているのは、彼を観察してきた結果。そしてそれを、じゃあ、お前が守ってくれるんだろう、なんて言ってくれる王にうっとりと見とれてしまうのは、自分が馬鹿だから。
いまはその弱点に飛び込んだだけだ。
その手首を蹴り飛ばして木刀を飛ばしてやろうとしたのに、どういうわけか逞しい手のひらに抑えられた。木刀を持っていない方の利き手ではないほうの手のひらに、渾身の蹴りを止められたというのはそれなりに衝撃がある。なにせ、自分の最大の弱点は全ての攻撃の軽さだ。速さを追求すると重みが載らない。思わず口汚い言葉を吐きそうになったがシンドバッドの手前引っ込めた。だいたいそもそも、彼を罵倒するのは仕事をしないときだけでお腹いっぱいだ。
足首を捉えられたままというのはとても居心地が悪い。振り払ったジャーファルのことをシンドバッドは止めなかった。まだこれ以上何かされても大丈夫だという自信があるのだろう。実に気にくわない。
「そんな躍起にならずに、空を見上げてみたらどうだ」
「今度は何処を殴られるか分かりませんからね」
「用心深いな」
自分のしでかしたことを棚に上げて笑うシンドバッドがとても気にくわなかった。距離を開けてもう一撃加えようにも、たぶん自分のほうが体も攻撃も軽いことは承知している。さてどうしたものか、迷った隙を突いてきたのはシンドバッドの木刀の先端だった。
腹を直撃されるほど愚かではないけれども、体を右にねじったついでに上着がひらりと舞い上がった。その隙に、もう一度、木刀を持っていない方の手で、今度は腰を捕まえられた。全く以て、両手揃ってこんな臣下に差し向けて、この王は一体何を考えているのだろう。
(知っているけれど)
「捕まえた、逃げるなよ?」
声に腹が立った。
つい、自分の手首にいつも通り?を纏わせているイメージで、両手を彼の首の後ろに伸ばしたけれども、そういえば彼を殺すべき暗器は、先ほど取り外してしまったのだった。そうでなくても彼を殺すなんて、自分には出来ない。もしこの手にあの暗器があったとして、自分は彼の首筋を刺し貫いたあとどうするつもりだろう。まさか、無理心中とでも?
やり場無く伸ばした手は、結局彼の首の後ろで組んで、ぐ、と引きよせた。彼に捕まったというのならば、彼を引き倒すくらいどうと言う事はないだろう。シンドバッドは木刀を放り投げて、柔らかく笑ってこちらの誘いに乗じた。
せめて砂埃の舞う鍛錬場ではなくどちらかの寝台が良かったのだが、こんな下手な誘いしか仕掛けることの出来ない自分にはそんなことを言い出す余裕があるとは思えなかった。きっとこれから一度、ここでまるで獣のように絡み合ったあと、シンドバッドが自分のことを離してくれないのだ。
願えない自分の代わりに、いっそ大袈裟なくらいに。
「あ」
「どうした」
シンドバッドを引き倒したのは自分だというのに、どうにも傍目には彼が自分を組み敷いているようにしか見えないだろう。現に硬い砂を撒いただけの石の床に倒れ込んだというのに、ジャーファルは碌に痛みらしい痛みを覚えなかった。全部、全部シンドバッドが受け止めてくれているのだ。
「ほんとうに、星が綺麗ですね」
「な、言っただろ」
張られた布の合間から見える星々は、真っ黒いはずの夜の空を僅かな青みに染めて瞬いていた。南のこの国ではどの星もとても遠いところを瞬いていて、眺めていると気分が良かった。そして、その星空を背負っている、自分を組み敷いている男のつややかな黒い髪が、その光にぼんやりと照らされている。目の色は丁度影となって濃い紺紫に沈み、そこに映り込む自分の姿を見るのが耐えられなくてジャーファルは目を閉じた。
「好きにしてくれ、っていう顔だな」
「お好きにどうぞ」
笑いを含んだ声が言う。ジャーファルの中でその声と、それから先ほど見た星空が、目蓋の裏できらきらと光っている。それじゃ、遠慮無く、という声がジャーファルの唇を擽ったから、たぶん殆どくちびるに触れるところで彼は喋っていたのだ。全く、良い根性をしていると思う。
こんなにもどうしようもないところまで追い詰めておいてくれて。
「ああ、可愛いなジャーファル」
これ以上自分を縛るようなことを言わないで欲しいとジャーファルは思った。自分のことを締め付けるのはあの暗器だけで充分だ。あとは彼への敬愛ならばなんでもかんでも自分が自分の中だけで処理できるはずだから。だから、これ以上この耳や目や口の中を、彼の熱で溢れさせないで欲しい、そう思った。
(そうでないと、あの星空の中へ真っ逆さまに落ちてしまいそう)
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2011/06/06
初出はピクシブ。初書き。