「おや、みなさんお揃いで」
ジャーファルは、自分の目的地の方から、廊下を歩いてきた三人の子供たちに声をかけた。アラジンは両手を振っておにいさんと返事をしてくれたし、アリババとモルジアナはぺこりと頭を下げて会釈してくれた。
両手にいっぱいの書簡を抱えたジャーファルは、アラジンの全身の歓迎に応えられない自分のふがいなさがくやしかった。自分が子供を甘やかすのにはいろいろな理由があるのだけれども、結局、自分があの人にそうされてうれしかったからなんだろうなぁ、といまのところ簡単に結論づけている。
「シンは部屋にいましたか?」
「はい、なんだか頭抱えてましたよ」
「逃げ回ったお仕置きにこれでもかっていう量の書簡をお渡ししてますからね、これもいまから持っていくぶんなんです」
この三人の中で、一番適切な答えをくれるのはアリババである。アラジンはどうにも言葉を扱うには幼いし、モルジアナは口が少ない。それと比べるとアリババの説明は簡潔で、なおかつ状況の想像がしやすい。もうすこし世間の汚さを覚えたらシンドバッドに似るのかなぁ、と思って、ジャーファルは首を振った。それは、こんなにも未来のあふれる若者に対して、失礼に当たるかもしれない。
「ジャーファルおにいさん、重くないの?」
「手伝いましょうか?」
アリババのように上手く話せないけれども、アラジンもモルジアナも優しい心を持った子供だった。ジャーファルの書簡を預かるように差し出してくれる腕を見ると、思わず表情がゆるむのを自覚してしまう。
「アラジンもモルジアナも、有り難う。そうしたら、一つお願いがあるんですが、いいですか?」
「なになに!?」
元気いっぱい答えてくれるアラジンはとても無邪気で、こういうなにも疚しいところのない子供にこそ強い魔力は宿るのかもしれないと思った。たとえばジュダルだって、やり口はともかく、本人はひたすら無邪気に破壊衝動を持っているだけだろう。余分な汚いものがないというのはそれだけ強いんだなぁ、と思ってから、ジャーファルは内心でため息をついた。
それでは、自分には勝ち目がない。
そんな考えを振り切るように、ジャーファルはにっこりと笑った。
「両手がふさがってしまっていて、シンの部屋の扉を開けられないのです。そこまでご一緒してくださいますか?」
「子供らと一緒に来るなんて卑怯だ」
「私はあなたが仕事をすると言う言質を取りたいだけです」
「なおのことだ!」
さきほどまでシンドバッドに鍛錬の指示を仰いでいたという子供らは、何にも裏を疑うこともなく、ジャーファルの「お願い」を手伝ってくれた。そうして子供らとともに王の部屋を訪れた政務官は、子供らを部屋から退出させた。もちろん、その前にきちんと、尋ねるべきことは尋ねている。
「いつまでに終わらせてくださいます?」
「ゆ、夕刻かな……」
目を逸らしながら答える王を見ながら、ジャーファルはとても満足げに頷いた。アリババの、やっぱり七海の覇王は違うなぁ、という言葉もいい後押しになったはずだ。どうしようもない人間だが、それでもシンドバッドは、アリババに対して王とは何かというのを示すことにつけては、非常に躍起になっているように見える。
仕事の刻限まで聞き出したところで、ジャーファルは子供らを下がらせた。もちろん、みなさん、それぞれの鍛錬をがんばってくださいね、と、ちゃんと彼らの目線まで屈んで言うことも忘れていない。さてどうやって脱出するかという算段を立てていた王といえども、子供らの純粋無垢な三組の瞳を前に、ジャーファルの抱えてきた仕事を見て逃げ出すわけには行かないだろう。
「卑怯だと言われても、今朝のあなたの行動にはいささか不審な点がありますからね、こうして見張っていようと言うだけのことです」
「不審なばかりではあるまい」
「私の鼻でもわかるようなそんな不埒なにおいをさせて?
」
鼻の利くモルジアナだったらともかく、嗅覚については人並み程度のジャーファルですらわかるほどの、重ね合わせられた香のにおい。それは、ふつうに過ごしていて身に宿るものではけしてない。たぶん、酒はとっくに抜けていたとしても、女と過ごしたにおいは残っているのだ。あるいは、そういった女に飲まされた酒のにおいも彼の衣にまとわりついているのだろう。最近、こういったにおいの銘柄の輸入の許可をした覚えは、確かにあった。
「誤解だ」
「なにがです」
「別に不埒なことをしたわけではない」
「あなたのかつての行動に基づく予測をすれば、あなたが誤解だと主張するような物事が見えてくるのです。私は自分の予測の方を信じています、あしからず」
「手厳しいな」
シンドバッドが肩をすくめる手前側、大きすぎるくらいの執務机の上に、両腕に抱えてきた書簡をおくと、ジャーファルはそれを処理するべき順番に並び変える。普段は縄の跡が残る指先まで隠すように、幅の広い袖口を伸ばして指先を組んでいるけれども、この男を前にその気遣いは必要ない。好むと好まざるとにかかわらず、いままで数え切れないほどこの素肌を確かめられているのだ。
そういったことを昼間に思い出すのは、ジャーファルの性に合わなかった。あっさりとそれらを記憶から取り払う。後ろめたさがないというわけではないのだが、自分が揺らぐのよりはよほどましだと思った。そして、とりあえず、記録の日時を指でなぞって確かめながら、農業の件、観光の件、と口に出しながら書簡を並べ変えていく。
シンドバッドはジャーファルの手元をじっと眺めているようだった。だが、それはおそらくいまから自分が処理するべき書簡のことを確認しているのだろうと思い、ジャーファルは取り立てて気にしなかった。このひとの行動のいちいちに理由を求めていたら、理解するべき自分の方が、たぶん処理能力を超えて破綻してしまう。
「はい、シンから見て右手側からお願いしますね」
「ジャーファル」
「はい」
「確かに俺は今日の昼間、飲み屋にいた」
「はあ、そうですね」
「だが、今日の午前、俺がいたのは、園芸農家だ」
「存じております。この国から花を輸出する方法について、地主とご相談に言っていたのでしょう。ついでに小作人が無茶な生活を強いられていないか確認なさってきた。取り立ててなにも私の耳に入っていないと言うことは、問題がないのだと認識しておりますが、なにか違いますか?」
「それが違うのだよ、ジャーファル君」
そういってシンドバッドは突然ジャーファルの指先を握った。思えば自分ばかりがつるつるとシンドバッドの予定を口に出来ると言うことが、なんだかひとりよがりのようで寂しいと一瞬だけ思った。だがそんな思考を与える暇もなく、ふだんは隠しているジャーファルの指先に唐突に触れてきた力強い指の力の強さを感じて、思わずジャーファルは一歩あとずさった。シンドバッドのなすことに理由は求めてはいけない。
とはいえ、指は握られたままである。まさか指だけちぎって逃げるわけにも行かない。
「シン?」
「俺からきついにおいが漂っていることは認める。だがこれは香のにおいではない。昼間の酒屋でついた女のにおいでもない」
「はあ」
「地主は良好な人間だったよ。農園を見せてくれて、その場で働いてくれている小作人にも会わせてくれた。あれは小作人を奴隷扱いしていたりするのではない、立派な地主だ。この心を持ち続けてくれたら、この国の発展に寄与してくれることも間違いない」
「ずいぶん手放しでお褒めになりますね」
「この国に自生していない植物を育てて、新しい商品にしようとしていると言ってな。特別な畑につれてもらったんだが、どうにもその花のにおいがまずいのだ。とても良い香りがするのだが、なにせいささか強烈すぎて、香を焚きしめているのによく似ている」
「お話が見えませんが」
「俺は今日の昼、女に会っていたのではないと言う話だ」
シンドバッドはそういって、ジャーファルの身体を突然抱きすくめた。あまりにも唐突な展開に着いていけなかったジャーファルは目を見開いたが、シンドバッドはジャーファルの反応にかまうこともなく続けた。
「酒屋もきわめて健全な類の小料理屋だった」
「あなたにしては」
「地主が自分の野菜を届けている店を教えてくれたのだ」
「はあ」
「酒もそんなに飲んでいない」
「そうですね、今日はさほどきつい酒のにおいはしません」
「この前承認した酒が流通しているか、確かめただけだ」
「なるほど」
自分の身の潔白を並べ立てるシンドバッドの言葉を聞きながら、ジャーファルはさて、どうやってこの腕から抜け出そうかと算段していた。普段ならばこんな状況になれば、咄嗟にシンドバッドに攻撃を加えてでも拘束から逃れようとするのだが、あまりにも必死なシンドバッドの口調にほだされて、それに、花の香りとやらにかどかわされて、なにをして良いかわからなくなっていたのだ。
「で、なにが言いたいんです」
「ジャーファルに誤解されるのは耐えられない」
珍しく、まじめな声で。
そんなことを耳元でささやくものだから。
「……大丈夫です、我が王よ、あなたの言葉を信じましょう」
ついつられてつるっとそんな言葉が口から出た。とはいえ、まったくすべてを信じているわけではない。園芸農家の地主が良い人だった、小料理屋、そこまでは事実かもしれない。酒の抜けきらないにおいを漂わせていたわけでもない。彼が健全な午前を過ごしたということは信じてやっても良いが、どうしても、花の香りと女の影だけは、ついて離れない。
ジャーファルがどれくらいの疑いを残しているのか、シンドバッドははかろうとはしなかった。ただ、シンドバッドはジャーファルの額に額をこつんとぶつけて、嬉しそうに笑った。
「ああ、よかった」
「なにを、珍しい」
「君に認められるのは幸せでね」
こんな近い距離に彼を入れていることにそろそろ警戒の心を抱くべきだったとはわかっていたのだが、このとき、ジャーファルは、はじめに指を握られていたときから判断を誤っていた。甘えるようにすり付けられる額と、彼の腕に捕まってそんな白々しい言葉を投げつけられているのがいやだった。
どうせいくらなにを言われたって、ジャーファルの心は動じない。自分にそうあるように律しているからだ。目の前の男は一国の王であり、ジャーファルはその政務官であるという生き方を選んだ。それを振り返ることはしないが、それ以上を求めることもやめた。
なぜなら彼は王であり、ジャーファルがともに旅をしたただの男では既にないのだ。ジャーファルは今、彼のことを補佐する以外、何の権限もないのだ。
「わかりました、わかりましたから、そんなに甘えるのはよしてください」
ジャーファルは可能な限り穏やかに、けれども揺るぎない力でシンドバッドの肩を押し返した。そのときにシンドバッドの目が、自分しか知らない風に揺れると言うことは知っていた。何もあり得てはいけないと言い聞かせる反面、何かがあることを一番知っているのも自分だった。自分が麻痺させた感覚はいったい何だったのか、シンドバッドが踏み越えられない線の向こう側にはどういう願いがあるのか。
「夕刻までに何度か参りますから、どうぞ逃げないで下さいね」
「君に探して欲しいから逃げるんだがね」
「困らせないで下さいね」
笑いながら彼と距離を置いて、そのまま至って自然を装って部屋を出た。両腕を塞いでいた荷物は既に無く、代わりにジャーファルは両手で自分の顔を覆った。シンドバッドが何を考えているのか、自分がほんとうはどうしたいかこの手に取るように分かる。だが、その願いを掬うことは出来ない。なぜなら、自分たちはすでに公人であり、あらゆることを守るために捨てなければならないたったひとつのものに悩まされる立場ではないからだ。
(それも結局は、あなたにまとわりつく香に耐えられないだけ?)
なんて子供じみていて、どうしようもないのかと思えば、笑いがこみ上げた。
一度目に王の部屋に見回りに行ったとき、丁度その前にはモルジアナがいた。彼らには王宮内の移動は自由に認められていたし、万が一シンドバッドを殺そうとでもするならば、そのときはジャーファルはきっと容赦が出来ない。自分の限界の軽さを、ジャーファルは良く理解していた。
「ジャーファルさん、」
「どうしたの」
言いかけて言葉を止めた少女は、一歩近づいてくると、控えめに、ああ、矢張り、と言った。
「お花、抱えたりしました?」
「、どうだろうね」
においがしないと言ってくれたのはいつかの彼女だったが、それと裏腹にこうして自分の纏った香りの指摘を受けると、つまるところ移り香のもとを尋ねられているようでとても辛かった。女ではない、ただの花だ。そんな見え透いた言い訳を正面からぶつけてくる王は、一体自分に何を求めているのか。知っているけれども、知らない振りをしていることが自分の前にまた露わになる。顔を背けなければならない。彼を甘やかすことは自分を甘やかすことと同義だ。
(それは、ひどい矛盾)
「とても柔らかくて、ふんわりとした香りです」
「それは、ただの、移り香だね」
強い口調で断じると、彼女が困ったように俯いた。ああ、ちがう、モルジアナを困らせたいのではなくて。
「傍迷惑な人がいてね」
彼の幸せを願えば願うほど、自分に都合の良い出来事ばかりが目の前を掠めていく。彼が、一番側に置いてくれているのが自分だと言う事はどういうことを意味しているのかうっすらと察しながらも、それを認めたら結果的に彼がどれほど不自由な立場になるか分かっているからジャーファルはその線を越えない。
許されたならば。
自分たちがただの人間同士としてまたこの世に出会い直したら、どうなるだろう。
「ジャーファルさんは、」
モルジアナはいつだって、無口だけれども、言いたいことを言うことができた。いつかアリババはもっとやれるとシンドバッドに進言したときだって、強い女の子だと思った。あるいは、たぶんいまだってそう。
「お花、似合います」
「……ありがとう」
こんな子供にまでそんなことを言わせて、さて、自分は一体何を隠そうとしているのだろうかと、ジャーファルはすこしだけ頭が痛くなった。そうすると先ほどシンドバッドと触れ合った胸元から花の香りが立ち上ってきたような、そんなのは気のせいであればいいと心から願った。
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2011/06/06
初出はピクシブ。どこへいっても私の世界は貴方の匂い。