落ちる炎

 忠臣を絵に描いたような忠臣が、ジャーファルである。本来は暗殺道に優れているところ、政務官としてもその能力を発揮して、いつだってシンドバッドを助けるために粉骨砕身している。何かのいけない琴線に触れない限りは人当たりもよくて、シンドバッドの不在時には文官のトップとしてやれる仕事をこなす。
 シンドバッドがひとりひとりの人に詳しいとしたら、ジャーファルはその情報を抽出して数字に変えて、どうすれば住みやすい国を作ることが出来るのかというのを考える役職だ。出来たばかりの国の国民を幸せにするためには、どちらだけでも成り立たない。どちらもあってもの国の運営である。
 ジャーファルも、自分が常に王宮に詰めていて、国民の生の声に疎いところは自覚があるのだろう。シンドバッドが街に飲みに降りることも、羽目を外しすぎない限りは、容認しているようだった。そうやってシンドバッドが吸い上げてきた情報が、どれだけ国政に必要なのか彼はよく知っていた。
 鉄の純度の上下を知るのは鍛冶屋である。水の綺麗さをはかるのは料理屋である。土地の健康さを考えるのは農家で、嵐に気づくのは船乗りだ。それを吸い上げにいくシンドバッドのことを、ジャーファルはけしてそれ自体で咎めるわけではない。
「ああ、今日はほどほどに切り上げて下さったのですね」
 現に、ジャーファルはそう言った。
 もっと長居していけよと顔なじみの飲み屋で引っ張られたけれども、シンドバッドはちょうどそれくらいがいい気分だと感じたのだ。鍛冶屋の誘いを断ると、顔なじみの飲み仲間が一様に言った。王宮には、良い人はいるのかい? と。
 シンドバッドが王宮に直接関わる人間で手を出したことがあるのは、たった一人だけである。それはとりもなおさず、その一人以外に王宮の中で手を出せば、彼が、さすがに傷つくだろうと思ってのことだ。そもそもシンドバッドだって、街で抱く女は、自分が女を抱きたいと思って選んでいるわけではない。寄ってくるものを拒まないだけだ。
(言っても見苦しいがな)
「何か良い話はありました?」
「西方の海に天気の悪そうな雲があるそうだ。二、三日以内に大きな雨が降るかもしれないな」
「大雨ですか。治水は大丈夫ですが、どこか屋根が破れていましたね。どこでしたか」
「病院だろう」
「ああそうです、早速明日修理に向かってもらいましょう」
 ジャーファルは、王を戸口に立たせたままで自分は執務机に向かい、顔をちらりと上げながらも手元に置いた書類からは注意を逸らさず、それでシンドバッドの話を聞いていた。政務官にしては実に横暴な態度だとは思う。とはいえ、いまさらいちいち外出から帰ってきたくらいで、礼を尽くして迎えられるのも面倒だ。そもそも、礼を尽くして出かけたわけでもないので。
 さらさらと、病院の屋根、と書き留めたジャーファルは、それで、と言った。
「あなたはもうお休みに?」
「そうだな、この程度なら気持ちよく眠れそうだ。もう遅い、お前も寝なさい」
「もとよりそのつもりです。急ぎの案件は昼のうちにすませてありましたし、あなたの帰りを待っていただけですからね」
 ジャーファルは立ち上がる。机を照らしていた蝋燭から手元を照らすランプに火を取ると、元の蝋燭の火は吹き消した。部屋の明かりはそのひとつだけで、あまり目に良いとは思えない。
 帰りを待っていたなんて、言うだけは言うくせに。
「部屋の明かりもとればいいだろう」
「執務室から明かりなんて漏れていたら、真面目な誰かが気にしてしまうかもしれないでしょう?」
「嫌みか?」
「いいえ、文字通りです。たとえこの部屋から明かりが漏れていなくても、あなたはこうして帰ってきたら私に声をかけてくれるでしょうから」
 ジャーファルは言い切る。その態度を、シンドバッドはひどくこそばゆく感じる。
 確かに、どれだけ泥酔していても、それこそ記憶もないくらいに泥酔していても、シンドバッドは必ず王宮に戻ればジャーファルに声をかけるようにしている。酔っていても、というのが実に、本能的で、我ながらいじましいと思う。
 あるかないかのその先の、深くて甘いところに、踏み込んで欲しいと無意識で願っている。
「部屋までお送りしましょう」
「それは君がされる立場だろう」
「どうせ隣ですので」
 ジャーファルがそういうのは、王宮の中の女官に手を出しでもしたらどうする、という考えのせいだと知ってはいる。そしてシンドバッドの王宮の中にいる女には手出しをしないという決意を、ジャーファルが知っていることも、シンドバッドは知っている。
 夜は更けていたので、ジャーファルが掲げるランプの光を見ながら、二人は無言で歩いた。シンドバッドはほんとうは明かりがほとんどなくても王宮の中を自在に歩くことができるし(現に執務室まで、何にもぶつからずにたどり着いている)、ジャーファルなんてもっと夜目が利く。それでも二人の間には光がある。熱が灯る。
 シンドバッドの部屋に着く。扉を開けると、女官が換えていってくれたとおぼしき香が出迎えてくれた。ちょうどこれから来るであろう雨に似た、柔らかさを装いつつ強くこちらを閉じこめる香だった。
「火を、つけます?」
 ジャーファルはランプを掲げて尋ねた。ここで要らないと引き下がれば、ではおやすみなさい、と言ってジャーファルはあっさりと部屋から出ていってしまうだろう。そして、自分の部屋に入ったジャーファルは、テーブルにランプをおいて、ふ、と吹き消すと、ばたりと寝台に倒れ込む。彼は起き抜けに風呂を浴びる習慣があるので、休むと決めたならばすぐ休んでしまうだろう。
 それでは、面白くない。
「ああそうだな、頼む」
「、ええ、では」
 わずかに逡巡したのは、素直に引き下がらせてはやらなかったこちらの思惑を組んだのだろう。ああ、鋭い。鋭いところは好きだ。そして、その鋭さを、政務官という殻の中に無理矢理閉じこめているばかりに、殻の内側から隠し事の棘で自分を傷つけることを繰り返しているところも、とても好きだ。
 ジャーファルはすぐに気を取り直すと、シンドバッドの部屋の中央にある燭台に、ランプから火を移した。シンドバッドは寝台にどっかりと腰を下ろして、その仕草を見ていた。
 裾広がりの袖に火がつかないように、丁寧に片方の手でたくしあげる仕草、わずかに屈んだ腰、炎に照らされるそばかす混じりの白い頬。あまり血色はよくないので、赤と黄色の間を揺らめいた蝋燭の炎に揺れるそれはとても不安定で、手を伸ばしたくなるのだ。
「ジャーファル」
「はい」
「俺はいまとても気分が良い」
「先ほど伺いましたね」
「お前は?」
「はい?」
「俺といるのでは楽しくないか?」
 ジャーファルに尋ねると、え、という小さな声とともに首を傾げられた。否定されたら落ち込むし、肯定されることはないだろうと思っていたが、まさか疑問の表情を浮かべられるとも思わなかった。
「楽しい、ですか?」
「ああ」
「シンは、こんな私と過ごして下さって、楽しいですか?」
「もちろんだ、でなければ帰りにお前のところに立ち寄ったりはするまいよ」
「では、私も楽しいです」
 ジャーファルはそういって、にっこりと微笑んだ。
 違和感がどうしても残る。
「お前は、自分では楽しめないのか」
「は?」
「すべて、俺次第なのか」
「昔から、ずっとそうでしょう」
 ずいぶんといまさらなことを、というように、あっさりとした口調が言った。どうしよう、シンドバッドは思った。うれしさと、気にくわなさが、同時に訪れる。
「ジャーファル」
「はい」
「お前は、己の感情にどうしてこうも疎い」
「はあ」
「あまり考えていることを言わないな。いつも俺のことばかり、俺が逃げ出せば怒るし、俺が楽しければ楽しい。自分では、感情を持たないのか? 不思議でならないんだ」
 ジャーファルは、それこそ何を言われたのかわからないと言った体で、また首を傾げてしまった。じれったい、シンドバッドは思った。寝台から立ち上がる。ずんずんと彼にほんの三歩で近づくと、反射で後ずさった彼の手からランプを取り上げて燭台の隣に置いた。
「私だって、怒ったり、悲しんだりしますよ」
「そうだな」
「そういうことでは、たりないのですか?」
 ジャーファルはすこしのけぞりつつも、目の前に立ったシンドバッドから逃れるわけにはいかないということを分かってはいるのだろう。目を見て話しなさいと言う刷り込みには意味があったようだった。彼は、絶対にシンドバッドとの会話からは逃げ出さない。
「それは、本当のお前の感情か?」
「はい」
「だってすべて、俺の出来事じゃないか」
「私が感情を動かすのなんて、シンのため以外、何があるというのです」

 もしかすると、とんでもない方向にジャーファルを育ててしまったのかもしれない、とシンドバッドは思った。押し寄せる後悔と、それでも沸き上がる後ろ暗い喜びが、自分の首を一瞬で絞めて落としてくれるようだった。
 息が詰まる。
「なんでもいい、ジャーファル、欲しいものを言いなさい」
「え?」
「いま、いまほしいものだ」
 ジャーファルは今度こそ困ったように眉を寄せたが、それはおそらくシンドバッドがその薄い両肩を掴んだせいもあるのだと思う。ジャーファルがもしもそれほどにシンドバッドに依拠して存在しているというのならば、そう、たとえば自分がほんとうにこの世界から影も形もなくなったとき、彼はどうなるというのだろう。
 いま、ですか。とシンドバッドの言葉をなぞるジャーファルは、一度シンドバッドから目をそらし、窓の外を見た。きっとそこには星に照らし出された夜が落ちてきているのだろう。
「あなたの、健やかな眠りを」
 結局ジャーファルはそういって笑った。
 ああもう、なんでもかんでも自分のことばかり。
 シンドバッドはそういうふうに彼を仕立てあげたのが誰だったかということを棚に上げて、彼を今度こそ抱きすくめた。ジャーファルがこんなにも自分の色に染まっているという喜びと、もしかすると何か大切なものを見失っているのかもしれないと言う後ろめたさがない交ぜになっても、腕の中に納めた身体からは気配がどうしてもしなかった。
「シン」
「つき合え」
「え?」
「安眠させてくれるのだろう」
 言うと、ジャーファルは驚いたのか、腕を突っぱねようとした。そんなところで拒絶してももう遅い。シンドバッドはその身体をベッドの上に放った。うめく声を聞きながら、ランプも燭台も何もかもの光を吹き消す。窓から入ってくる光さえあれば十分だ。
「もう、こんなにも遅い」
「それでも、お前は私に心地よい眠りをくれるだろう」
「……はい」
 絶対的に伝わっていないものがある。
 それに気づくのがとてつもなく怖い。
 クーフィーヤを留める飾りに手をかければ、ジャーファルは何もかもあきらめたように力を抜いた。違う、そうではない、お前からも手を伸ばして欲しいのだ、シンドバッドは思ったけれども、口にはできなかった。
 この違和感はそのままにしては絶対にいけない。このままでは彼がどうにかなってしまうかもしれない。
 それだけは気づいたけれども、だったら何ができたというのだろう。目の前の彼の肩を押せばたやすく寝台に倒れ込んだが、けして腕を伸ばしてはくれない。
 ああ、分かっている。
「ジャーファル、愛してるよ」
「……なんとおそれ多いことを」
 組みしいたその手が漸く動いたかと思えば、それはシンドバッドの唇を指先でふさいでくれるだけだった。ほかの何だってシンドバッドと感覚をともにしているのに、どうしてもジャーファルはシンドバッドが彼に向ける感情を受け止めてくれない。
(受け止められない、から?)
 シンドバッドは推察するけれども、答えなんてものはない。答えを持ち合わせているはずのジャーファルは、何も教えてくれない。もしもこの中がほんとうに虚無だったらと思うとそれが恐ろしくて、シンドバッドはなおのこと深みに手を伸ばし続ける。
(参ったなぁ)
 ほんとうに王宮の中で浮気でもしたら、このガラス玉のような瞳が逃げるわけでもなく、シンドバッドを責めてくれるというのだろうか。どこか危うげな淵に立つ自分たちは、どこへ向かっているのだろうか。答えは分からない、ただ、欲を放ちたいと願うだけだった。



2011/06/06
初出はピクシブ。精神的不感症を装ってるジャーファルさんに萌えて。