抵抗は声にならなかった。そもそも本気で抵抗していたわけではないのだから抵抗と捉えること自体が筋違いなのかも知れない。もしほんとうに庄左ヱ門に手を止めて欲しいと望むならば、殴ってでも、声を上げてでも、或いは自分の袷に手を突っ込んで苦無を取り出してでも、抵抗するべきだと、分かってはいた。
できないのは、そう。
「庄ちゃん、やめて」
隣の部屋に聞こえないように細い声で彼を止めた。四年生にもなればだれがどこで起きていても不思議はない。天井裏に潜んで自分たちを観察している悪趣味な者は流石にないと思うけれど、すこし大きな声を出してしまえば何をしているのか筒抜けになることならば、充分にあり得た。
伊助のことを壁に押し当てた庄左ヱ門は、見た事のあるような、ないような顔をしていた。首の横と、腰の脇に、よく成長した掌を押しつけて、伊助が動き出すのを封じている。
一方で、ああ、と伊助は気付いた。自分たちはお互いに知っている限り、あの幼い頃からずっと隣にいた。手を握ることを当たり前としていた。さすがに二年、三年と上がるにつれて回数は減ったけれども、ふたりが皮膚を触れ合わせることを躊躇った事なんて、なかったはずだった。
いま、庄左ヱ門は、伊助のことを捉えておきながら、伊助に指一本たりとも触れようとしなかった。異常な出来事だというのが分かった。そして庄左ヱ門にとってもこの状況がまともではないということもわかった。まったくこの世にまともな物事なんて、何も無いのかも知れないけれども。
「やめてほしい?」
聞き方は挑戦的であったけれど、庄左ヱ門が伊助を見透かそうとする目はとてもではないけれども直視できないような熱を孕んでいたけれども、それでも彼の全身から放たれる緊張が普通ではないのも分かった。恋しい人に触れられないというのは、こんなにもつらいものかと伊助は思った。
伊助だって抱かれるならば庄左ヱ門が良かった。不思議と彼を相手に自分が抱く側になるという想像が出来ないのは、つまり幼い頃からの刷り込みだろう。もし庄左ヱ門が謀ってそうしたというならば末恐ろしい話だった。なにせ、こうやって自分が囚われている体勢にもさしたる疑問はない。
何をされたって良いとはもとより思っていない。そんなことを思ったら最後、ずぶずぶと彼にはまってしまうのは自分のほうだと伊助は分かっていた。普段感情に波風を立てないようにしている分、そこにひとつ大きな投石が成されたときの自分のぶれは、自分が一番良く知っているのだ。
けれども中途半端にこんなことに踏み切られるのは嫌だった。伊助は縋るように庄左ヱ門の紫の制服の肩を掴んだ。手の先までが張り詰めて緊張して震えていた。はじめて家で布を水にさらしたとき、その感覚にどこか似ていたけれども、相手が無機質か、人間の体か、それは大きく違っていた。
庄左ヱ門は驚いたように肩を震わせた。ともすれば振り払われそうな動きに対して伊助は許し難いものを感じた。だって捕まえたのは庄左ヱ門のほうなのに、なんで、逃げるの、こんな気持ちにさせておいて。
「こんなの、まだ、僕ら」
躊躇うように言葉が先々に蹴躓くように飛び出す。それらと裏腹に肩を強く握り込めば、力を掛けて自分のほうに庄左ヱ門を引き倒しているように錯覚した。庄左ヱ門は実際にそう思ったのか、伊助のほうへ体を倒して、口を吸った。初めてではなかった。
ただ、ほんの僅か触れたそれが、すぐに離れて。咄嗟に目を瞑った伊助がゆっくりと目を開けると、矢張り庄左ヱ門はこちらを捉える眼差しをするのを止めなかった。壁についていた手を滑らせて、伊助の両頬を手で包んだ。目線と裏腹に、手は僅かに柔らかく、暖かかった。
「僕は伊助が欲しいんだ」
思えば迷うことをしない人だった。迷うそぶりをして、先走る感情を我慢することはあったけれども、そう言った場合にも庄左ヱ門の内面にはすでに答えが用意されていることの方が多かった。伊助の震えた手がぎゅっと握りしめる庄左ヱ門の肩は、伊助のそれよりもずいぶんと発達していた。四年生にもなれば得意不得意が自分で分かってこなければならない。伊助が体の発育で庄左ヱ門に及ぶことはきっと無いだろう。
けれどもそれだけじゃない。
「庄ちゃん、僕だって抱かれるなら君じゃなきゃ嫌だ」
口を吸われて感情はめちゃくちゃにされて、それでも欲は存外整然としていた。庄左ヱ門が欲しい、庄左ヱ門に心だけではなくて体を欲して欲しい。微妙な距離を遠巻きに見つめ合ってきた二人はまるで一つの池を囲んで歩き回る水鳥のようだ。真向かいに互いを見つめ合いながら、自分が一歩動けば他方も同じ方向に一歩動く。なるほど堂々巡りだ。
解決策はたったひとつ。ふたりが同じ池に飛び込むしかない。
「僕らが、どうなっても、この先、今夜のことを忘れないなら」
結局いくら言い訳を用意しても互いが互いを求め合っているのを止める手立てなんてない。そこにどうしようもない事情が介在しない限り、こんなにも近くに存在していて、言い訳を用意できない幼い自分たちが、互いを欲してしまうことを止めることも出来ない。
庄左ヱ門は怖いのだろうと思った。自分も怖い。何がだろう、と数えることは出来なかった。数え切れないほどの可能性がそこいらに転がっているからだった。庄左ヱ門はきっと、伊助と一生を添い遂げることが出来ないことを恐れている。伊助もきっと、同じ事を恐れている。だから、先延ばしにして、触れ合わないで終わればいいのに、そう思って互いに互いを見つめるだけで我慢していたはずだったのに。
彼にどんな切欠が介在していたのか知らない。今日の色事の授業か、誰かの艶めいた話を聞かされたか、或いは単純に彼の中に抱え込んだ感情が堰を切ってしまったか、おおかたそれのどれかあたりだろう。伊助にしてみれば堰を切ったのが庄左ヱ門のこの暴挙であり、それなのに自分の体に触れることを巧妙に避けた庄左ヱ門の最後の迷いを断ち切ろうと思ってしまった欲だったのだろう。
「好きにして良いよ」
放った言葉は最後まで音にならず、庄左ヱ門はまた口を吸った。その舌を含んだことさえ初めてではなかったのに、二人は互いにまだ同じ布団で寝たこともなかった。今日は布団を引くことさえ叶わないのかも知れないと伊助は思った。その思考は、庄左ヱ門の舌が自分の奥歯の少し上辺りを撫でたついでに、霧散していった。
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2011/03/24
初出はピクシブ。年齢操作+3で初書きでした