かくれ愛

 恋をしたから、後ろにあった道はすべて崩れてしまったのだろう。

 雪が降るのはこの辺りでは珍しいことではない。四年前だったならばみんなで雪合戦をしに飛び出していたであろう級友達も、雪に耐えうる火薬の研究をしに外へ出向いた兵太夫や、鍛錬に励む虎若や金吾を除けば、皆長屋で火鉢に当たっているようだった。
 伊助も例に漏れず、半纏を着こんで火鉢のそばに座っていた。庄左ヱ門はぎりぎり火鉢の熱が届くくらいのところで本を読んでいたが、紙をめくる頻度はいつもよりも少ない。伊助は庄左ヱ門に聞こえないように小さく笑って、きり丸の請け負った学園中の繕い物のアルバイトの手伝いを再開した。
 きり丸は土井にはタダで仕事を頼むようだが、伊助や他の誰かにアルバイトの手伝いをさせるときには、なんらかの見返りをくれることの方が多かった。今日も食堂のメニューを既に指定してある。彼と違いとりあえず学費が貰える環境にいる伊助には、金よりも食事の方が礼としてありがたいのだ。
 布や糸を持っているときや、冷たい水に手を浸した時に、そういうところに触れた感触がたまらなく落ち着くように感じるのは、つまり、もう家業と言う奴なのだろう。転じて針の類の武器は、目を瞑っても人の急所を狙えるだけ、得意になってきたのだろうと思う。
 群青の制服で井桁の制服の繕いをしているのも間抜けな話だが、幼い子供に針を持たせるのもどうかと思わないでもない。結局伊助は、雪の午後をぼんやりと過ごすことにした。
 天井の上、屋根からとんとんという音がする。
 心地いい積雪の音だ。冷たい雪は染料がよく出る。家族は今頃仕事に勢が出ていることだろう。自分はあの家に帰ることが出来るのだろうかと伊助はぼんやりと思った。それさえも無意味といえば無意味なことであったが。
 一本の線を縫い終えて玉で止めたところで、伊助はふと、同室者の様子を見た。彼はなんら変わらない様子で、これ以上詰め込んでどうするのかと言うくらいの知識を詰め込んでいるようだった。その横顔を見るのは、伊助はとても好きだった。だから、自分でもわからないくらいに小さく唇の端をあげて、伊助は静かに立ち上がった。
 冷えが入り込んでくるので布をかけてあった窓から、外をすこし臨む。こちら側からは丁度中庭の様子が見えないので分からないが、遠くで一年生がきゃんきゃんと遊びまわっている音が聞こえた。いいものだ。
 壁に凭れて雪がぽつぽつと落ちてくるのを数える。吐き出した息はもちろん白かった。端切れを繋げて作った、窓にかけた布は、肩に引っ掛けるとむしろあたたかいくらいだった。目隠し用にと作ったのは伊助だったが、それを勝手に好意的に解釈したのは庄左ヱ門のほうだった。外から見えないようにして、見えないようなことをしてもいいってことだよね? 熱っぽい目に口調、思い出すと、頬が熱くなるのを感じる。
 しょうちゃん。
 声には出さずに喉の奥だけを動かした。
 表立っては彼と話すときには、庄左ヱ門、と名前で呼ぶようにしているけれども、二人になるとどうしても確かめるように、しょうちゃん、と呼んでしまう。人に言えないようなことをするときにも、しょうちゃん、と。そう呼ばないといけないなんて理由はどこにもないのだけれど。ただ、そう呼ぶことが許されているのが自分だけのような気がして、伊助はうれしくなって頬を緩めるのだ。
「伊助」
 呼ばれたかと思うと次の瞬間には後ろからもう抱きしめられていた。
 伊助はひどく庄左ヱ門の気配に鈍かった。お互いに忍務のときにはあれだけ他人に対して敏感なくせに、部屋で気を抜いている時には庄左ヱ門でさえときどき伊助の接近に気付かないことがあった。
 つまるところ互いに背中を預けきっていると言うこの環境が必ずしも忍者として正しいとは思わないのだが、それでも自分たちにはそれくらい気の抜けた関係が相応しいとも思うのだ。なにせ一番は組で忍者らしい庄左ヱ門に必要としてもらえる。
「なあに、どうしたの」
「何をしてるんだ?」
「雪を数えてたの」
「そうか」
 後ろから覆いかぶさる庄左ヱ門の体が温い。
「伊助、呼んだでしょう?」
「呼んでないよ」
 伊助は動揺を隠して答えた。確かに、彼の名前を音にしないで呼んだ。それを気付かれるのは予想外だったのだ。ああ、でももしかしたら、音にしなくても、庄左ヱ門には見つかってしまうのかもしれない。
 二人にはどうしようもないくらいの空虚があって、いくら抱き合っても埋まらない。時々辛くなるこの心境が、恋い慕うと言うことなのだと、思えば楽になった。だから、もし庄左ヱ門が伊助に呼ばれたように聞こえたと言うのならば、それは恋のせいなので、仕方がないことなのである。
「絶対に、呼んだ」
「そう? じゃあ、きっと僕は君を呼んだんだね」
 投げやりに同意を示しながら、伊助は庄左ヱ門の腕に抱きこまれることを甘受した。やはり、布切れよりもずっとあたたかい腕がそこにあった。ああ、またこうやって捕まえるのだから。困った庄ちゃん。
「伊助が冷たい」
「庄ちゃん、雪が綺麗だよ」
 伊助の肩に庄左ヱ門が顔をずるずるとのせるので、伊助はその言い分を全て綺麗さっぱり聞き流して窓の外を指差した。すると庄左ヱ門が指差した伊助の指ごと引き止めるように、体を抱きしめてきた。
 その手が妙に力が入っていて、それで仕方なく伊助は笑う。
「もう庄ちゃん、甘ったれね」
「煩いなぁ」
「雪にまで嫉妬しないでよ」
「しょうがないだろ」
「うん」
 嬉しくなって伊助が頷くと、庄左ヱ門は、もう、と溜め息をついて伊助のことを抱きしめる。外には誰もいない。誰かが引き戸をあけてもこの布切れが二人を隠してくれる。穏やかな冬の終わりの日、周りには何もなくたっていいと思った。



2011/03/24
初出はピクシブ。室町なら雪が積もりそうな気がして