視界良好

 黒木は大学に上がって、眼鏡を掛けるようになった。
 と言っても、それほど度のきついものではない。遊びでかけさせてもらった二郭でも、別に悪酔いをしない程度の度だ。いっそこれほど度が弱いのであれば、必要がないのではないだろうかと思ったけれども、大学の大教室の後ろの方から見るスクリーンはとても遠い。生まれつき目はとてもいい二郭には、必要なのか、そうなのか、くらいにしか分からなかった。
 なおかつ、眼鏡をかけるようになったといっても、常用しているわけではない。普段はケースに入れて持ち歩いて、授業中に必要だと思ったらかけるくらいだ、ということらしい。黒木とおそらく相当長い時間いる二郭でさえ、あまり多く見る機会はない。二郭と被っている授業の中でも、彼がそれをかけるのを見るのは週に二度くらいだ。
 二郭の定位置は黒木の隣で、お互いに、かは分からないが、少なくとも二郭の方はそのポジションになんの違和感もなかった。大学の座席は独立していないところが多くて、それこそ黒木が眼鏡を取り出さなくてはならないような大教室だと、少しぼんやりしているとそれこそ肘と肘がぶつかるくらいに近い。
 それくらいの近さというのはむしろ高校のときには体験した事がなかった。それだけではなくて、例えば朝、地元駅から一緒に乗り込むラッシュ、遅い時間にへとへとになって帰る改札、そういうところで、確実に黒木との距離感が近くなったような気もしたし、制服を着ていない彼を見慣れなくて距離感を量りかねているだけだと言われたら、そんな気もした。
 冴え冴えとした整った横顔に、眼鏡はよく似合っていた。黒木とともに講義を受けて、たまに教科書を捲る手とノートを捲る手が触れ合って小さく謝って。黒木が集中して前の教授の話を聞いているとき、その横顔を盗み見て、二郭はほう、と溜息をつく。
 制服がない代わりに、眼鏡は適切な距離を確認させてくれた。授業中、ほんとうにすこしだけ手を伸ばせば握りあえる程度。ふたりに許されたのはほんのそれだけの距離で、なおかつたぶん、黒木のほうは二郭にそんなふうに見られている事には気付いていないと思う。
 小さな頃からよく懐いていた分だけ、どこまで甘えれば黒木が違和感を持つかと言う事を測るのにも距離感は必要だった。報われないなぁと思う。黒木にしてみれば、自分なんてせいぜい手のかかる幼馴染みだ。どちらかに彼女が出来れば、こうやって一緒に学校に通う事もなくなるのかな、といつかの朝に彼が笑ったとき、二郭はどんな表情を浮かべられたのだろう。
 午後の大教室は、ほんのりと差し込む西日と、人のぬくもりでほどよい眠気に包まれていた。黒木はそれほど姿勢が良いわけではなかったが、頬杖をついて教授の話をさらさらと書き取っていた。教科書のページもきちんと開かれていた。同じ授業を聞いていても、二郭はきっと期末に彼のそういったメモを必死に借りる事になるのだろう。
 それでもいい。歩いて五分と離れていない家の距離は、自分たちの世界が広がるにつれて、どんどん特別になっていった。こんな近く、大学に通うようになってまで、一緒に朝から待ち合わせて登校できるのだ、好きになった人と。
 日ごと夜ごと黒木の事を好きになってしまう。彼はいつぞやかの授業前、はじめて二郭の前で眼鏡を掛けて見せて、似合う? と笑いながら尋ねた。金属質のフレームさえ、彼の整った顔を引き立てる効果しかなかった。
 捻りのない色の薄い金属が、知らない彼の表情を見せる。彼が授業を聞くためにその眼鏡を掛ける瞬間、そして終わった事に安堵して表情を緩めて眼鏡を外す瞬間、毎度見とれては、後悔する。
「伊助?」
 小声で呼ばれた。は、となって二郭は、なあに、とすこし上ずった声で尋ね返す。教授の声はあいかわらず心地よい子守歌のように大教室を包み、なんだか誰もが自分たちを見ていないような気がした。ふたりきりになれたような、気がした。
 彼が笑ったから。
 眼鏡は、大学に入って測りかねるようになってしまったふたりの距離を、確実に確認させてくれる貴重なツールだった。その向こうで彼が笑うとき、自分たちのあいだにそもそも境界なんてなかったのかもしれない、不意に二郭はそう思う。
「顔赤いよ、暑い?」
「……そうかもしれない」
「帰ったら、アイス食べようか」
「うん」
 心配するようなことを言いながら、同時にこのあとの約束を取り付けてくれる。そんなことにどれだけいちいち二郭が舞い上がっているか知らないから、狡いよな、と思う。黒木はすぐに視線を正面に戻してノートを取る作業に戻った。二郭は、もはや、その横顔を見る事も出来なかった。どうやら、見とれて顔が赤くなっているらしいので、これ以上踏み込めば危ないような気がしてしまったのだ。
 地元の駅のアイスクリームショップは、はて、ほんとうにこんな熱を持っていって、涼しく感じられるのだろうか。



2011/05/15
初出はピクシブ。庄ちゃんは眼鏡外してくれるの待ちです