アウトサイダーの憂鬱

「若い子は化けるね」
 浦風がにこにこしながら言うので、富松としては、はあ、と言わざるを得なかった。言いたいことならば多々あるが、それ以前に。
「怪我の具合は」
 そちらを聞かねばならなかった。
 バックヤードには誰もいなかった。ショーのダンサーたちは楽屋とステージと舞台裏とをいったりきたりしているので、舞台装置を修理するための車が直接乗り付けてくることができるような場所には誰もいないわけだ。
 富松は倶楽部の装置屋だ。上司とあちらこちらに出入りするついでに、運が良ければ綺麗なものを見ていくことができる。
 浦風は親しいダンサーだった。親しいなんて言う言葉で処理するのが惜しいくらいに、親しいダンサーだった。富松は浦風が好きだった。ファンとして純粋に好きだったし、それ以上の意味でも、好きになってしまったら、いけないなぁとは思っていた。
 彼が怪我をしたとは噂で聞いていた。
 富松を迎え入れて、浦風はバックヤードにあぐらをかいて座っていた。富松もその向かいでぼんやりと座っていた。ぎりぎりまで引き絞った足首は細い。女性でもないのに女性を模して体を作っているものだから、自分たちの業種のように育てばいいという体つきをしているわけではない。無茶をしているなぁと思う。
 新作ナンバーをいつもの二人を引き連れて踊るんだ、と楽しそうに話してくれたのが一週間。怪我をしたと聞いたのが昨日。ちょっとした修理を口実に、バイクで様子を見に来てみたら、今日はバレエのエチュード。少しは体をいたわった方がいいように思う。
「僕は大丈夫だよ、立花さんが大げさすぎるんだ」
 そういって笑うけれども、足首と手首には包帯が巻かれていた。左半身から派手に落ちたと聞いていたが、頬骨のあたりにもひっかき傷があるように見えた。
 装置屋は金がない。そもそも支払い元の倶楽部に金がないのだから、あてのないツケばかりがたまっていく。彼らを見捨てることに決めたならば銀行やそれ相応のところに委託して取り立てを頼むのだが、富松の上司とこの倶楽部の主はよしみがあるらしく、いまのところ浦風と仲良くしていても、金を取れとは言われない。
 そしてこういった倶楽部のダンサーは、金のない男の手を取ることはできないのだという。理屈はわかる。パトロンになってやるだけの金があればそれがいい。だが金はない。今頃ステージに投げ込まれているであろう、お捻りをひねり出す財布など持ち合わせていない。
「そうか、大したことがないなら良かった」
 富松は笑った。
 笑ってやる以外のことができない。
 浦風の白くてしなやかな手をとって、逃げることができればなぁとよく思う。ここは、時代錯誤な遊郭ではない。けして、時代錯誤な、駆け落ち、というほどまで大げさなものでなくてもいいのだ。
 ただ、浦風のほんとうにやりたいことをさせてやりたいだけだ。
「どんどん遠ざかるなぁ」
「なにが」
「夢?」
 浦風はからからと笑いながら言った。
 言われた富松は表情を動かすことすらままならない。
 こういったアンダーグラウンドな倶楽部も、一国の代表といえるような有名なオペラハウスも、装置屋にしてみれば箱である以上同じ商品だった。だから富松は外国の超一流のバレエ団などの見聞があり、浦風はいつもそれを知りたがった。
 たぶん浦風はそういうところに行きたいのだろうと思う。富松はよく浦風の体のつくりを観察していたが、それがプリマドンナの筋肉とよく似ていると思ってはいた。今日も浦風は黒いタンクトップにダンスパンツで、あぐらをかいたついでに、ラフにストレッチをしている。長い髪をさっくりと高い位置でまとめている姿は、もしかすると自宅にいるときよりもリラックスしているくらいかも知れない。
 メイクを決めてステージに上がっていく姿も好きだが、浦風がこうして力を抜いて同い年の友達として自分に話してくれるところが一番好きだった。こんな倶楽部街でこんなにおっとりとした顔しかしないというわけではないだろう。ただ力を抜いても言い存在として認識されているのは幸せだった。こんなにも美しい人間にそうやって扱われて、いやな顔をするほど自分はバカではない。
「新ナンバーやるって言ったじゃない」
「ああ」
「昨日から伝七が僕の代役をしてて、今日から兵太夫がサポート役に戻ったんだけどね」
 他人のことを聞いているほど浦風から目を逸らす余裕があるわけではないが、浦風が話したいならば富松は聞く。
 馬鹿みたいに大きなスピーカーから垂れ流される爆音は低音が良く響き、ショーが進んでいくのを知らせている。そのナンバーはさきほど浦風に舞台袖から見せられたけれども、黒門が化けた、というところだけは理解できた。それだけだ。浦風が出ていないナンバーを真剣に見られるほど、誰でもいいわけではない。
「伝七ったら立花さんにお化粧教わったんだって」
「あの子が?」
 富松の知っている限り黒門はプライドが高く、誰かにものを教わるなんて好きではなさそうに見える。富松の考える限りでは、踊ることと見せることが違うことを知りこなしてこそ一流のショースターだが、彼はまだただのダンサーだと思っていた。
 確かに先ほど見せられた黒門の姿は、足りなかった色気を補い始めた末恐ろしい子供のそれだった。何かあったのだろうと思うけれども、富松には倶楽部の内情がそこまですべてわかっているわけではない。浦風がそんなに楽しそうにしている理由もわからない。
「兵太夫もやっと報われるってもんだよね」
「そうなのか」
「あの子たち素直じゃないから」
 大変なんだよ。
 笑う口元の力の抜けたカーブについ、指を伸ばした。自分の指先が彼の口元に到達するより早く、え、という浦風の疑問の混じった声がした。
「さっきなんか食べただろ」
「え、あ、うん」
「ついてる」
 澄んだ色をした口元にそんな粗相があるはずがないのに、富松はついさらりと嘘をついた。騙された顔をしている浦風も浦風だ。騙されたいというそぶりなんて滅多に見せてくれないくせに。
 ほんわかとした存在感は、代わりに綻びることもなく、富松に付け入る隙もくれない。触れたそこは柔らかくて、つい手だけではなくて首を伸ばしそうになるのを富松は自分を叱りつけて止めた。そんなことをして、何になると言うのだ。
「人もいいけど、まずは自分を治せよ」
「うん」
 ショーナンバーの低音が落ちてくるバックヤードで話すのには、あまりにもふつうの話題だった。それがかえって嘘みたいで、富松は笑うしかできなかった。
 連れ出してやるあてなんて、あったもんじゃない。



2011/06/06
初出はピクシブ。こんななりして青春出来る?